友人らとブログを始めた

by knagayama on 1/05/2012

友人など数名と一緒になって、政治と経済とその他諸々を考える『ブリュメール』というブログを始めた。一日数ポストの勢いで、重要なニュースの速報から、より落ち着いて読むための考察など、政治経済や社会に関わることを幅広く取り扱っていきたいと思う。

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耳の後ろの加齢臭

by knagayama on 3/04/2012

以前からおもしろく読んでいる中国嫁日記に、加齢臭の話が掲載されていた。井上氏によれば、耳の後ろをていねいに洗うことでかなりの程度加齢臭は抑えることができるという。しかし、それは何故なのか?

そもそも加齢臭というものは、加齢によって増加した皮脂中の脂肪酸が酸化・分解したことによって発生する2-ノネナールという物質が原因であるらしい。

人間の体臭には様々な成分が関わっている。ここで吾々は加齢による体臭の変化について研究した。26歳から75歳までの被験者の体臭をヘッドスペース・ガス・クロマトグラフ質量分析法によって分析した結果、脂のようなまたは草のような臭みのある2-ノネナールが40歳以上の被験者にのみ見つかることがわかった。さらに、皮表脂質の分析によって、ω-7不飽和脂肪酸および脂質過酸化物も加齢によって増加し、体臭内の2-ノネナールの量と皮表脂質中のω-7不飽和脂肪酸または脂質過酸化物の量に正の相関があることもわかった。2-ノネナールが生成されるのは、脂質過酸化物を酸化連鎖反応の開始剤として利用し、皮表脂質の主要な成分が酸化的に分解されるような減成試験によって、ω-7不飽和脂肪酸が減成された場合のみであった。これらの結果が示すことは、(a) 2-ノネナールはω-7不飽和脂肪酸の酸化的減成によって生成されること、(b) 加齢による体臭の変化に2-ノネナールが関与しているであろうこと、である。(2-Nonenal Newly Found in Human Body Odor Tends to Increase with Aging 拙訳)

もしノネナールがω-7不飽和脂肪酸の分解によって発生するのであれば、とくに耳の後ろにω-7不飽和脂肪酸が多く含まれているということでない限り、耳の後ろを洗うことによる加齢臭の激減には繋がらないはずである。しかし現実にはこの療法の効果は高い。何故か?

考えられることはおそらく、「耳の後ろを洗うこと」が根本的な解決策なのではないということだ。重要なのは、「耳の後ろ洗うこと」なのではないか。日常生活を営む上で、耳の後ろは最も洗われない部位のひとつであるはずだ。他の主要な身体部位は、入浴の際に洗われてしまうが、耳の後ろや足の指の間といった部位は、洗われずに終わりやすい。髪を洗っていても、耳の後ろまできちんとこするという人はそういるわけではあるまい。洗われずにおくことによって最終的にそこで発生するノネナールの量が他の部位よりも多くなってしまうのだろう。

まとめる。加齢臭の対策は、耳の後ろのみ洗っていれば良いというわけではない。きちんと風呂に入り、まんべんなく体を洗うことこそが、加齢臭の根本的な対策なのだ。

しかし──人間であれば多少臭うのは当たり前、年を取ってくれば更にそうである。近代文明の中で生きる我々は、自らの排泄物をもう少し尊ぶことを学んでも良いのではないか。あまり過剰に反応されては、どうも困るね。

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José Ortega y Gasset on Concepts

by knagayama on 31/03/2012

概念というものは、どんなに簡単でもどんなに複雑でも、すべて、幾何学的にカットされたダイアモンドが、爪のついた金の台にはめられているように、それ自身の皮肉の中に、のどかに笑っている歯列の中にはめられている。

概念は真顔で、「これはAであり、あれはBである」という。しかし、この真顔は、笑いをこらえた真顔である。大笑いを呑みこんで、もし口をよく結んでいなければ、吹き出してしまいそうな、不安定な真顔である。これはAではない。断じてそうでない、もうひとつはこんりんざいBではないことを、概念は良く知っているのだ。概念が厳密に考えているのは、それが口に出しているのと少し違うことであって、この二心の中に皮肉がある。

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Markdown エディタ Mou.app がすごい

by knagayama on 4/03/2012

しばらくのところ新しいエディタを導入するということはしてこなかった。基本的には Scrivener.app を論文作成には利用し、あとは場合に応じて CotEditor.app や Microsoft Word などを使ってきた。けれども最近、発見と共にわたしのエディタ利用率トップに躍り出たアプリケーションが存在する。それが Mou.app である。

Mou.app

仕組みも使い方も簡単。ウィンドウは二分割になっており、左側に Markdown 記法でテキストを書き込むと、右側にパースされた状態のものがリアルタイムで表示される。リンクやテーブル、画像もきちんと表示してくれる。スタイルはプリセットのものが三種類あるほか、 CSS を書くことで自分好みにカスタマイズすることも可能だ。プリセットのものでもとても美しく処理を行ってくれるので、何も変えずにわたしは使っている。

その他にも機能はいろいろだ。日本語で文章を書いている人間にとっては、縦書きで使えると言うこともちょっとした魅力だろう。わたしにとってはなにより、HTML 書き出し機能が有難い。見えているそのまま WYSIWYG で美麗な HTML を書き出してくれるので、とても有難い。早速今書いているレジュメを Markdown で書いて HTML 化してみた。

Mou.app 使用例

以前ははてな記法のほうが慣れていたということもあって、Markdown 記法はあまり使っていなかったのだが、最近はずいぶんと対応のものが増えてきたので、あまりはてな記法を使うと言うことがなくなってきてしまった。はてな記法と Markdown 記法がどちらも利用できるエディタなどあれば嬉しいなと思う。

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ソーシャルゲームはプロレフィードか

by knagayama on 3/03/2012

時は21世紀前半。我々は情報社会に生きている、と人は言う。インターネットは吾々の生を益々簡便なものにし、さまざまな障壁を取り払う。かつてある哲学者は資本こそが最も冷徹な地ならし屋だと考えたが、いま人々の生活世界を恐ろしいスピードで水平にしていくのは吾々をつなぐネットワークとそこで伝達される情報である。そして吾々は、それがよいことであるような気さえしているのだ。

けれども前世紀のおわりに楽観的な識者たちが夢見たようにインターネットが世界を益々民主的に変貌させていくということはない。たしかにソーシャルネットワークはトリポリで革命を起こしたかも知れないが、情報が資本と同じような差異の運動のさなかにその本質をもつというのならば、その自由な流通の結果発生するのは、情報を多く持っているものと少ししか持っていないものの格差なのではないか。

近年、情報強者と情報弱者という対立軸を耳にするようになった。グローバリゼーションの波にうまく乗った情報強者はインターネットを使いこなし自在に情報を摂取し編集するが、弱者は情報の海の中に溺れいまにも窒息するおそれすらある。或いはこれは日本的ガラパゴスにおいては PC を利用する層とガラケーを利用する層の二分化としても特徴付けられるかも知れない─その場合は後者は情報の波に触れてすらいないということにもなろう。

最近流行の所謂ソーシャルゲームを遊んでいるのは後者の人々であるという。曰く、グリーや DeNA の提供するゲームは、PC を利用して(情報強者によって)作られているにもかかわらず、情報弱者によって利用されている。六本木ヒルズで作成されたソーシャルゲームは、高速道路を走り回ることを生業とするトラックの運転手の左手で遊ばれているというのだ。

それがどれだけ本当かはわたしは知らない。けれども、「大衆のための娯楽」としてのソーシャルゲームが社会の特定の層によって遊ばれている、というのは、たしかに有り得そうな話ではある。少数の強者が多数の弱者のために大量の娯楽を生成し、売りつける。それは、はて、かつて様々に到来を予言されていた社会のいち構図ではなかったか。

ジョージ・オーウェルが「1984年」で描き出した社会には、プロレフィードという言葉がある。それはこの小説の舞台であるディストピアにおいて搾取される社会的階級、「プロレ」に対して支配者たる党から提供される小説や映画、音楽などのエンタテイメント一般を指し示している。必要な情報が与えられず、何が真理であるかが日々変更され、歴史が書き替えられ続けるこの社会において、プロレたちは党のインナー・サークルによって飼い慣らされ、愛国心を注入されて満足した生活を送っている。しかしこの言葉が示すとおり、党はプロレに供給されるこれらの娯楽を、彼らに与えるための「餌」とみなしている。党のアウター・サークルがインナー・サークルの機嫌を伺い忠誠を示すペットだとすれば、プロレは純然たる家畜として認識されているのである。

動物。まさしく党の標語は(かの有名な「戦争は平和である」の他に)「プロレと動物は自由である」というものであった。ポストモダンが到来したといわれて幾何かが経過した今日において、吾々はすっかり動物として生きることに慣れてしまったのであろうか。

いや、何を言っているのだ。吾々はイングソックの支配下に生きているわけでもないし、ソーシャルゲームを生産している会社が何らかの惡しき意図を持っているわけでもない。そこにあるのは純粋な利得計算だ。遊ぶ人間がいて始めてこのビジネスは成立しうるのであって、そこには全体主義的な意図など何もない。

それでも、歴史が終わった後に民主主義と資本主義が支配するこの世において、人々が自由に興じているはずのソーシャルゲームが、かつて全体主義的社会の象徴として恐れられたプロレフィードをどこかしら思わせるということは、何とも皮肉なことではないか、と思うのは、わたしだけではあるまい。

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アメリカは哀しい社会であるな、という話

by knagayama on 3/11/2011

ひょんなことから「ソーシャル・ネットワーク」を見た。おそらくは見ないで終わるであろう、と思っていた映画であったので、少し驚いた。公開当時から話題になっていてはいたが、様々な方の寸評を見聞きして、まあ、わたしには関係のない物語に違いない、と感じたので、時間とお金を費やしてわざわざ見る、という気分にはならなかったのである。

photo
ソーシャル・ネットワーク 【デラックス・コレクターズ・エディション】(2枚組) [DVD]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2011-05-25

by G-Tools , 2011/11/04

けれどもどういうわけか、時間もお金もそう使わずに、向こうから見てくれとやってくることになった。具体的にいえば、と書こうと思ったが、まあ具体的にいう必要はあるまい。何はともあれ、DVDが我が家に、親しい友人と共にやってきた、と思ってくだされば良い。

そういうわけで男3人、膝つき合わせて映画を見た。ソファの上で友人が姿勢を変えるさまを横目で見ながらジェシー・アイゼンバーグ演ずるマーク・ザッカーバーグの貧乏揺すりを鑑賞したのである。

ジェシーはまさしくユダヤ系アメリカ人、という外見であると思う。声の響きから立ち振る舞いまで、本当に何から何までわたしのユダヤ系アメリカ人の友人とよく似ていた。というか、友人を見ている気分になった。ユダヤ人の男とアジア人の女、という話が劇中でもあったが、彼もまた東アジアの女性を好んだ。当時のわたしには良く理解できない性癖ではあったが、あれはアメリカ社会の何らかの構造を反映していたのかも知れない、等と考えながら、アイゼンバーグのあまり動かない表情を見つめていた。そのせいで多少感情移入して楽しむことができたようにも思う。

閑話休題、映画の感想である。結論から言えば思っていたよりも良かった。何も期待していなかったから、かも知れないが、様々な点で楽しめることが多かった。たとえばアメリカで女性として生きることはどういうことか、という点も考えさせられたし(「わたしはスカーフを巻くような類の女ではない」という強烈な主張や、自らを純粋なオブジェにまで加工することの出来るある意味での極地を見せつけられた)、マーク・ザッカーバーグはやはり非常なる凡人であるな、という感想から、このような人物が突如として億万長者になるということはいかなることか、ということをしばし考えたりした。

何よりも感じたのは、タイトルの通り、合衆国とは哀しい社會であるな、ということであった。劇中に登場する様々な人間─マーク、エドュアルド、ショーン─は、みな何かしら欠けているが、何に欠けているのかもわからないほどに、その欠落性に囚われているのではないか。彼らはことあるごとにパーティーを行うが、その熱狂は何かからの逃避であるようにしかわたしには見えなかった。

うむ、なるほど西洋社会の人間は、ことあるごとに寄り集まって酒を呑み、部屋を暗くして踊り明かす、という奇妙な風習を持っている。劇中にも出てきた台詞であるが、制御を失うことを何よりの目的にしているようである – everything will be out of control, you have to come and see how it goes! – それは日常があまりにも制御されすぎているからか?制御を失うために場をあつらえるとは、果たしてどういうことであるのだろうか?

等と考えているうちに劇中の審問は終わり、ザッカーバーグが独りパソコンの画面へと向き合う孤独なラストシーンが訪れる。はて、この映画は何を描きたかったのか?「億万長者となった彼は、しかしいまでもあのボストン大学のドイツ系の娘を愛していたのでした」という悲哀の物語か?「起業には様々な物語があり、成功者の背負うものも決して煌びやかな過去だけでは無い」という若者への警鐘か?

むろん解釈はひとつではない。映画には様々な見方があってしかるべきである。けれども、少なくともわたしには、この映画が、現代のアメリカに生きることの悲哀を描き出しているようにしか見えないのである。

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アンネシュ・ベーリング・ブレイビク: ネット世界の狭いビジョン

by knagayama on 5/08/2011

以下は、トマス・ハイランド・エリクセンによる Anders Behring Breivik: Tunnel vision in an online world の全訳である。エリクセンは、ノルウェーの人類学者。ナショナリズムやエスニシティにかんする書籍を多数著しており、ブレイビクの1500頁にわたる「マニフェスト」で、唯一「ノルウェーの堕落の象徴」として名指しされた学者である。このエッセイは、インターネットによる選択的な情報の摂取がブレイビクの狭い世界観を形成したのであって、より広い目で世界を見るために新聞などの紙媒体で情報を収集することが重要だ、という論調になっている。その内容そのものに対しては色々と思うところがあるが、ノルウェーにおいて先の事件についてどのような言論が展開されているかを表す文章ではあると感じて訳すことにした。訳の正確性は保証しない。

アンネシュ・ブレイビクの世界観は、オンラインゲームと反イスラームのブロゴスフィアによって形成されたものと言えそうだ。社会が分裂していることを良く表している。

ノルウェーの警察がそこまで極右の活動に注意を払ってこなかったのには理由がある。単純に、そこまで目立っていないのだ。ノルウェー国内で極右を自称している人間は40人と予想されている。

しかし、ブロゴスフィアの暗部に詳しい人間ならば、インターネット上で激しい憎悪をまき散らしている存在に何年も前から気付いていた。「腐敗した多文化主義のパワー・エリート」を批判し、特にムスリムの移民について侮辱的な一般化を行う言論を生み出す人々である。

これらのウェブサイトやブログ、チャットグループに書き込みを行っている人間は、単に「右翼」というわけでは不十分である。「イスラーム化反対フォーラム」のあるメンバーは、同時に社会主義左翼党の党員でもあった。他の人々も、自らを社会民主主義的可知の体現者と見なしたり、啓蒙の火を燃やし続ける最後の砦だと主張したりしている。もちろん、より定型的な右翼的観点を保持している人々もいる。レイシズムをあらわにする者から、西欧をムスリムが計画的に乗っとろうとしているとする陰謀論者まで。毎日書き込みを行うものもいれば、月に一回やってくるものもいる。彼らが形成する緩やかなネットワークは、その数を予想することを困難にしている。

これらの人々が共通に持っているものは、まず、多様性の擁護者たちに対するルサンチマンである。これらの「エリート」は「反逆者 traitors」、「売国徒 sellouts」、「ナイーブな多文化主義者 naive multiculturalists」と呼ばれる。イスラームは西洋の民主的価値とは相容れない、ということも広く信じられている。この観点は、15万のムスリム人口(しかも増加中)を抱える国にあっては非常に問題だ。そのような考えがどれほど人口に膾炙しているか知るよしもないが、無力で無害なものとして片付けてしまうことはもはやできない。

今回、ブレイビクがはやりの服と髪型で着飾り、オスロのウェスト・エンドから来た国産のテロリストである─髭を生やした外国産のテロリストではない─という事実は、単に上記のネットワークのより詳細な検討のみではなく、ノルウェーの自己イメージそのものに対する冷靜な、しかし批判的な省察へと繋がるべきだ。ノルウェーという国の成員となるためには、宗教や肌の色はまったく関係がない、ということを我々のリーダーが明確にすることは多くを安堵させるだろう。1905年から1957年まで王位に就いていたホーコン7世は、自身が「共産主義者の王でもある」という有名な台詞を残した。ハーラル5世もまた、自身が「ノルウェーのムスリム、シーク教徒、ユダヤ人、そしてヒンドゥ教徒の王でもある」ことを明確にすることが、現在の状況に対する最善の応答となるだろう。それは言うまでもないことなのかも知れないが、このような言明は、強い排外主義と宗教的偏見がことばを失うほど凄慘な行為の思想的なインスピレーションとなってしまった今日の空気を少しでも清淨化する機能があるはずだ。

どんな国も、ある程度の繋がりが必要だ。それが実際にいかほどのものかは、正統な議論の対象とすることができる。文化的多元主義は国の分断と信用の失墜へと繋がると考えるものもいるだろう。それはある場面ではそうかも知れないが、常に真実であるわけではない。教育や住宅供給、仕事といった共通のインフラや制度がきちんと公平に機能する限り、社会は多様性を受け入れながら存続することができるはずだ。しかし、我々が対話を止めてしまった瞬間、崩壊は忍び寄ってくる。これが、ブレイビクとそのシンパたちに起こったことだ。彼らはインターネット上で別の現実を作り上げてしまったのだ。

インターネットによる公共圏の分断は学問上及びジャーナリズム上の関心事となってきた。ここ最近では、エリ・パリサー Eli Pariser の The Filter Bubble が、いかにして Google や Facebook といったインターネット企業が、我々のウェブ検索やアップデートを、ユーザープロフィールや過去の検索履歴に基づいてフィルタしているかをよく描き出している。私が環境保全主義者であれば、Google で「気候変動」と検索した際、石油会社の重役であるあなたとは異なった結果を得る、というわけだ。このフィルター・バブルはたとえば Amazon でも最適化されたオススメを表示したりする。知らない間にそれは我々のウェブ検索の背後で動作し、我々が気付かぬうちに既存の世界観の再生産を促すのだ。結果、我々はお互いにはぐれてしまい、異なった世界に住むことになる。

ブレイビクは自らイスラモフォビアや極右的なウェブサイトによって洗脳されることを望んだのだろう。けれども、もし彼が情報を新聞から摂取していれば、そこにはヨーロッパの自信の失墜や軍事的イスラームの勃興以外のニュースが記載されていただろう。あの週末の衝撃と不信から一つ学ぶことがあるとすれば、文化的多元主義は国民的な団結に対する脅威とは必ずしもならないかも知れないが、インターネットを通じた選択的な情報の摂取から得られる狭い世界観は脅威となる、ということである。

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