わたしはけっこう迷う人というのが好きだ。ためらいとか、躊躇とか、ことばは別になんでも構わないが、二つの考えに板挟みになっている人のことがそう嫌いではない。ひとつのプリンシプルにこだわり続けることができるような状況に置かれていることのほうが人間にとっては珍しいものだ。

ぐっとジェネラルな話から始めてしまったが、英国人類学の祖、ブロニスワフ・マリノフスキについて書こうと思ったのだった。彼の機能主義は、ラドクリフ=ブラウンとの比較において生物学への還元だとして批判される。例えばエドマンド・リーチは彼を「一般的、抽象的、社会学的な理論の形成」においては「失敗」と評した。マーシャル・サーリンズはさらに厳しく、「マリノフスキは人類学に理論的な分裂病 theoretical schizophrenia を導入した」と断罪する。ちょっとかっこいいよね、このフレーズ。

マリノフスキとラドクリフ=ブラウンという二人の英国人類学の巨頭はどちらもデュルケームの影響を受けているが、前者はヴィルヘルム・ヴントの機能主義の影響もまた受けており、「構造機能主義」を標榜した後者とは年月を経るにつれて距離を置くようになった。マリノフスキは 1910 年に LSE に来てセリグマンの指導を受ける。おや、1910 年といえば、今年からちょうど百年前じゃないか。どこか感慨深いものがあるな。ちなみに現在 LSE の人類学部にはセリグマン・ライブラリという小さな図書室がある。

閑話休題。マリノフスキの「一般理論」は、現在の目からふつうに見ると、あまりにもすべてを自然的個人に還元しすぎていて、まあ使い物にならない。ラドクリフ=ブラウンの方がはるかにましなことをいっているように見える。後者はけっこう厳しくマリノフスキの理論的な陥穽を批判している。

けれどもエスノグラフィに限ってみれば、たとえば Argonauts in the Western Pacific などは読んでいてわくわくする書物だ。一方ブラウンによるアンダマン諸島についての解説なんかは、うーん、と思ってしまうことの方が多いように思える。特に気に入ったのは、自分の観察したものをどう言葉にしてよいものかわからない、と言う状況にマリノフスキが遭遇しており、それをかなり素直に認めていることだ。何度も自分の観察したものを文章にまとめようとしたのだが、どうにもうまくいかなくて何度も書き直した、とある。

序文の中で何度も強調される Inponderabilia of actual life というのが彼にとってのキーワードであるようだ。曰く、日常生活というものに潜んでいる何かは、机の前で考えているだけでは理解することができない。フィールドに出て観察を行い、実際の人々の生の inponderabilia を見つめなくてはならない。英語にするとこれは imponderability みたいな語になって、意味としては、「はっきりはかれない、評価できないもの」。

これはそんなにソフィスティケートされていないただの直感だけれど、言葉というものが人間にとってひとつの実践であり、発話自体が社会的な関係の表出であるとしたならば、言語によって社会のすべてを表現し尽くすということは非常に難しいのではないか。言語とここではそれに付随してくるロゴスや理性というものは、鋭利なナイフのようなもので、何でもかんでもそれを使ってすぱすぱと切ってしまっては、社会というものが続いていくことはどんどん難しくなるのではないか。われわれはナイフの使い方をきちんと学ばなければならないが、それは別に、とりあえず何でも切ってみる、と言うことではないはずである。

Argonauts の序文には、トロブリアン諸島の人々の生活をどうやって英語で表現しようかと悩むマリノフスキの苦悩が少しだけ見え隠れしているように思えて、少しほほえましく思う。それは全く僕の勝手な勘ぐりかも知れないのだが。