If nationalisms in the rest of the world have to choose their imagined community from certain "modular" forms already made available to them by Europe and the Americas, what do they have left to imagine? ... Even our imaginations must remain forever colonized. - Partha Chatterjee

日本人であるわたしは、日本について語ることに格別の困難を覚える。今わたしに開かれている日本に関する物語のすべては、あまりにも不十分で、どれも一面的であるように思われる。日本はある物語ではアジアの人々に対するおそるべき侵略者であり、ある物語ではアジアの人々の解放のため白人と闘う英雄であり、またある物語では世界第二位(今はもう第三位だが)の経済強者であり、別の物語では失われた20年を経験した経済弱者であり…これらの物語のすべてはばらばらに留まり、日本という全体について語ることを許さない。幾多の日本論が生み出されては消えていく中、我々はあたかも重大な分裂病を患っているかのようだ。

「日本という観念も近代に入ってつくられた伝統なのだ」とポストモダニストは言う。「国民という物語を語ることはもうやめよう」と。けれども日本という物語を語ることをやめて、我々に何が残ったというのだろう。若者たちよ、国家のことなど考えないでよい、ただ自らの自己実現と経済的安定のことを考えなさい、東大を首席で卒業したきみは、官僚になどならずに外資系投資ファンドで年収数千万を実現したまえ…。ナショナルな、もしくは Statist な公共性を脱構築するこころみはコスモポリタンな公共性を構築するのではなく単に公共性そのものを潰してしまったのではないか。ポストモダニズムは結局のところネオリベラリズムの婢女であったのではないか。すべてが私有化され自由化され、そして、何が残ったのか。

日本について語らなければならないという切迫感をわたしは一定程度ナショナリストたちと共有している。けれどもわたしは一方でそのような言説に与する気には到底ならない。日本をフェティシズム的に賛美し、国旗を掲揚し国歌をうたい、民主党政府を「反日」と罵って「シナ・朝鮮」に対するゼノフォビアを表明する、そのような振る舞いへと同一化することはあまりにも容易い。わたしには(いつの間にか)そのような振る舞いをするようになった高校時代の同級生が数多くいる。彼らの再生産する言説を目にするたび、わたしはいつも哀しい気持ちになる。このような物語は圧倒的な無知と想像力の欠如を要求する。このような物語の圏内に留まる限り、我々は、日本社会─「日本」「社会」というこのタームはそれ自体非常に問題性を帯びたものである─が、どのような歴史的経路を辿ってこの21世紀に至っているのか、を理解することができない。

一方で、わたしの(数少ない)友人の中で最も良心的で、最も哲学的にも知的にも優れている人々は、日本について語ろうとしない。それは彼らが、「日本について語る」と言うことがいかに困難なことであるかを予め知っているからであろう。それがまた、良心的な動きであることをわたしは認める。

それでもわたしは日本についての物語を語りたいと思う。ナショナルなものをどこかで構築しなければならないと感ずる─公なるものを国家そのものから区別しながらも、参照点としての日本について語る必要性を感じる。けれどもそれはいかにして可能か?いかにして日本なる観念をそのような手垢のついた物語から掬い取り、埃を払って、語るに値するものとして扱うことが出来るだろうか?

パルタ・チャタジーは、「ラテンアメリカで発明されたネーションという想像がモジュールとなって様々な地域へ伝搬し近代世界を形作る」というベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論に対して、「反植民地主義的ナショナリズムの現実と合致しない」という反論を加える。「アジア及びアフリカにおける最も強力で、最もクリエイティブなナショナリズム的想像は、近代西洋によって喧伝された国民社会の「モジュール的」形態との同一性ではなく、まさにそれとの差異によって描き出される (Chatterjee 1993: 5)」とチャタジーは書く。彼の見る所、アンダーソン的なモジュール・ナショナリズムが「移植」されるはるか以前から─「植民地社会が帝国的権力との政治的戦いを開始する以前から」、反植民地主義的ナショナリズムはその胎動を始めるのである。いかにしてか?「社会的制度と実践を、物質的なものと精神的なものの二つの領域に分けることによって」、である。ベンガルにおける、「近代的であると同時にインド的であるような」文芸、芸術の誕生を指摘しながら、チャタジーは、西洋との差異を通じてベンガルにおける近代が構築されたことを指摘する。

このような論を通じてチャタジーはインドのナショナリズムについて語るための物語を自立させることにある程度成功するが、さて、このような戦略は日本においても可能だろうか?「和魂洋才」という言葉がある─日本における19世紀の状況は、まさにチャタジーの指摘する内外二元論と合致するではないか?

けれどもこの戦略は、このままでは日本に適用することは出来ない。理由は簡単である。この物語は、大日本帝国の植民地主義と出会ったとき、それを根本において肯定することになるからだ。西洋との対峙という点を共有しながらも、コロニアルな物語において日本と印度は全く対照的な位置にある。インドのプロジェクトが1947年に繋がっていくのに対して、日本のプロジェクトは1895年、1910年、1931年、1945年に繋がっていくのだ。すなわち、インドのナショナリズムがあくまで「反植民地主義的」で有り得たのに対して、日本のそれは西洋の植民地主義への対抗であると「同時に」「帝国主義的」であったのである。

ここに冒頭で述べた分裂病の症例が垣間見える。日本にとって近代とは反植民地主義の時代であると同時に帝国主義の時代であった。前者から見た日本と、後者から見た日本では、全く見える風景が異なっている。この意味でアンダーソンの議論もチャタジーの議論も一面の真理しか有さない。我々はこの二重の解釈可能性についてよく考えなければならない。日本は「近代の超克」を目指すと同時に、アジアにおける「近代の旗手」でもあったのである。それは西洋文明との同一化を目指す一方でそれとは異なる道を象徴的に示してもいた。大貫恵美子は神風特攻隊として死んでいった青年たちが異常なまでの読書家であったこと─西洋近代の書物を貪るように読んでいたこと─を指摘しているが、この事実は、日本における近代がいかにアンビバレントなものであったかを象徴的に示しているようにわたしには思われる。

わたしが(多分のためらいをもって)考えているのは、日本における「ナショナリズム」と「帝国主義」を、二つの異なった解釈可能性の糸として見立てることである。小日本主義と大日本主義、天皇機関説と国体論、「日本国」を確立する方向性と「日本帝国」を確立する方向性、これらの二つの歴史の解釈可能性は、戦前の日本の思想空間において、絡まりながらも対立していたのではないか。アンダーソンは北一輝を日本の公定ナショナリズムの思想家として紹介しているが、北一輝の生涯の顛末を知るものならばこの「公定」という用語に首をかしげざるを得ない─確かに北一輝は公定ナショナリストであったが、しかし、日本の帝国主義的膨張は彼の思想に見られるものと本質的に同じプロジェクトであっただろうか?モジュール化したナショナリズムの諸制度があるかたちの想像力と共に日本列島に輸入されたとき─ネーションとはまず何よりもある種の想像力、ある種の歴史的理解可能性である─それ以前から存在した宇宙論的な秩序観はどのような変形を被ったのか?最終的に「国体の本義」へと至る日本帝国主義は、ネーション建設の思想を一部飲み込みながらもそれとは対立し、最終的に自壊へと至ったのではないか?1945年以降の日本ナショナリズムがこの連なりにあるとすれば、我々はそのプロジェクトについて何を言うことができ、何をそこから引き出せるのか?

幾分か疑問符を使いすぎた。この段階では何も建設的なことは言えるまい─いつか建設的なことが言えるのか、という疑問は差し置いて。この文章こそが、「日本」という観念をめぐる混乱を扱うものであるのだから、多少の錯綜は許されたい。わたしが考えていることは、おそらく既に(よりソフィスティケートされたかたちで)誰かが既に考えていることだろうし、わたしが「日本」についてうまく語れると考える物語を編みだしたところで、それが普遍性を持つとも到底思わないが、ごくごく平凡な知性しか持たずにこの世に生まれてきてしまった人間の、個人的な葛藤の記録として、多少なりともこの文を残しておきたいと思う。言い訳がましくなってしまった。とりあえずこの辺りで。