ベネディクト・アンダーソンの著した『想像の共同体』という本がある。80年代に勃興したナショナリズム論の白眉であり、ナショナリズムを研究するものにとってはひとつの到達点であると同時に開始点でもある。しかし本書は、あらゆる古典と同じように、あまりにも有名になってしまった余り、陰翳に富んでいたはずの議論が単純化され、誤解され、しばしば誤って理解されたまま批判の対象となってしまうことがある。マーク・トゥウェインの言うように、「古典とは、誰もがすでに読んだ事があると思いたがっているが、誰も読もうとしないものである」というわけだ。

しばしばアンダーソンに対して行われる通俗的な批判は、「あらゆる共同体は想像の産物ではないか」と指摘することで、その分析的意味を減じようとするものだ。このような批判が的を射ていないことは、本書の序章を読むだけでも朖かである。この批判はアンダーソンがアーネスト・ゲルナーに向けて行った当のものなのだ。アンダーソンは言う:「直接顔を合わせて連絡を行う原始的村落より大きいあらゆる共同体(或いはそれでさえも)は想像されたものである。共同体は虚偽/真実という軸によってではなく、その想像のされ方によって弁別されなければならない ((Anderson (1983) p.6, 拙訳)) 」。原書の署名が Imagined Communities と複数形になっているのは何故か、ということだ。ネーションが他の「想像の共同体」、先行する文化的システムである宗教共同体及び王朝と異なるのは、それが明確に限定された領域に対して十全な主権性を持つものとして考えられるということである。

第二によく見られる誤解は、アンダーソンはナショナリズムの「創造性」を批判することでそのプロジェクトを否定しようとしている、というものである。これは誤りだ。近年行われたインタビュー ((Benedict Anderson: “I like nationalism’s utopian elements”。題が多くを語っている。バウマンに対する批判や、パスポートという制度の1900年代における発明についても触れられている。)) からも明らかなように、彼の試みは決してナショナリズムそのものを否定しようとするものではない。確かに彼自身はナショナリストではないし、「何がネーションという想像をあれほどまでに強力にしたのか」を問い、その秘密を暴こうとする。それが「近代の産物」である、「想像されたもの」だと指摘することは実践的には過激なナショナリズムに対する反論になっていることは間違いない。しかし一方で彼がナショナリズム以外のプロジェクトに積極的に同意するかと言えばそうではないし、寧ろそれがより良い方向に向かうことを願っている。この立場は近年のリベラル・ナショナリズムの立場に近いといえるのではないか ((デイビッド・ミラー『ナショナリティについて』風行社、2007年)) 。

最後に、彼の企図は「ナショナリズムの本質」を明らかにしようとするものではない。それはあくまで、文化的構築物としてのナショナリズムがどのような経緯から生成され、そして何故あれほどまでに多くの熱狂的支持を得たのかを詳らかにすることにある。そもそも「本質 essence」についての語りはナショナリストこそが得意とするものである。彼の仕事が「人類学的」であるのは、ゲルナーがしたようにナショナリズムを分かりよい一文に要約するのではなく、陰翳に富んだ物語を描き出そうと試みたからではないかと私は考えている ((もちろん、アーネスト・ゲルナーがケンブリッジ大学ウィリアム・ワイズ社会人類学教授であったことは覚えておくべきだろうが…)) 。

アンダーソンを他の論者から際立たせているものは、第一に彼が国民意識の先駆をラテンアメリカのクレオールに見いだしていること、第二にナショナリズムというイデオロギーに或程度肯定的であること、そして「モジュール化」という概念を導入することでいかにしてネーションという「構築物」が世界に広まっていったのかを説明しようと試みていることではないかと思う。同時に、彼の議論の問題性も、ここにこそ含まれている。