マイケル・サンデル、12の質問に答える


以下は、12 Questions with Michael Sandel | The Art of Theory, A Political Philosophical Quarterly の全訳である。個人的な覚書として訳されたもので、その正確性を保証するものではない。より自然な日本語にするために、表現を変更した箇所もある。もし何らかの誤訳や、改善すべき表現があれば、是非コメントを頂ければ幸いである。

マイケル・サンデルは、ハーバード大学教授。政治哲学。ロールズなど、自由主義政治哲学の批判で知られる。日本では、NHK により放送された「ハーバード白熱教室」によって著名になった。文中で示唆されている東アジアとは、主に日本を指していると思われる。

08 April 2011 01:38 (BST) 追記:よく数えたら質問は13あった。が、タイトルはこのままにしておく。パーマリンクを変更するのも手間であるし、もとより間違つているのは訳しもとなのだ。

1. 何故政治理論を学び始めたのですか?

最初は政治全般に対する関心から始まりました。わたしはこどもの頃からずっと政治ジャンキーでしたから。しかし、政治哲学そのものに対する関心は、大学院に入学して以降です。そこでわたしは初めてカントを読み、難解さを感じると同時に知的興味を引き立てられました。1975年のことです。それより四年前にジョン・ロールズの『正義論』が出版されており、それも大学院在学中に初めて読みました。

オックスフォード大学院での初めての冬休み─各学期のあいだに6週間の休みがありました─に、わたしは幾人かの友人たちと南スペインへ行き、そこで何冊もの本を読みました。カントの『純粋理性批判』、ロールズの『正義論』、ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』、アレントの『人間の条件』などです。オックスフォードよりも幾分か明るく暖かかったスペインの方が、わたしにとっては読書のしやすい環境でした。

2. 1980年、あなたがハーバードへ赴任した際のことを教えて下さい。

政治理論はそこでは強い伝統を誇っていました。ジュディス・シュクラー、ハーヴェイ・マンスフィールド、マイケル・ウォルツァーなどの老師がそこで教えており、哲学部ではジョン・ロールズとロバート・ノージックが教鞭を執っていました。政治理論と政治哲学に対する強い興奮と興味がそこにはあったわけです。

わたしは彼と友人関係にあったジュディス・シュクラーを通じてロールズを紹介されました。わたしの博士論文が彼の本についてのものであること、そしてその筆者が政治学部の政治理論准教授として赴任してくることを、彼女は彼に教えてくれたのです。わたしが到着してすぐ、彼はわたしのオフィスの電話を鳴らし、「わたしはジョン・ロールズです。スペルは、R-A-W-L-S…」と言いました。まるでわたしが彼の名を知らないかのように…(笑う)。彼はわたしを昼食に誘ってくれ、そこで初めてわたしは彼に会いました。彼は非常に優しく、寛大な方でした。わたしはノージックともしばしば話し合い、好意的な関係を築いていました。

3. 後に『自由主義と正義の限界』として知られることになるあなたの博士論文の話が出てきましたね。いわゆる「リベラル・コミュニタリアン論争」は、世界中の哲学部で教えられる主題となりました。今日あなたがこの論争について考えることを教えて下さい。

この論争にはふたつの形態があると思います。ひとつは失速してしまい、あまり面白いものではありませんが、もう一方はヨリ興味深く、議論を引き起こし続けています。前者の面白くない形態は、この論争が個人の権利を重視するものと共同体を重視するものの間で起こったと考えるものです。まるで問題の本質が諸価値の競合にあるかのように。

これはあまり興味深いものではありませんが、多くの人々がこの論争をそのように理解しています。まるで、カント的・ロールズ的自由主義の批判者が権利を否定したり、ある時間にある共同体で支配的な特定の価値によってのみ権利を定義することを好んでいるかのように。

この立場は、実際に行われた批判がなんであったかということを理解していない、とわたしは思います。それは権利・対・共同体、という狭く面白くない議論にまでこの論争を矮小化してしまった。この議論は既にその力を失ったし、失うべきであると思います。

しかし、もう一方の形態は常にわたしにとってより大きい関心の的になってきました。それは「何らかの善き生の概念を前提とすることなく、権利を定義したり擁護したりすることはできるか」というもので、非常に大きな政治哲学の問題です。

つまり、この、正しさの善さに対する優越にかんする論争は、ふたとおりに理解することができます。ひとつは権利・対・共同体のレベルで(わたしにとっては面白くない仕方)、そして、もうひとつは、どのように権利が擁護され、正義が定義されるのか、競合する様々な「善き生」の概念の中でひとつを優先することなくそれを行うことは果たして可能か、というレベルで、です。

この第二の形態こそがヨリ重要な議論なのであり、「コミュニタリアン」という用語はその真髄を捉えていません。問題は権利か共同体かという二者択一の問題ではないのです。問題は、正義の理論が議論される仕方にあり、そのような議論が、最も善い生き方にかんする諸概念、競合する倫理的及び霊的な諸概念から完全に脱利することは可能か、という点にあるのです。

この議論は今でも有効であり、我々の公的な生においても非常に重要です。政治理論の分野でも、それにかんする様々な興味深い著作が発表されています。

4. オンラインや公共放送で数百万という人々に視聴された、あなたのハーバード連続講義、「正義」について教えて下さい。

この講義は、わたしが1980年にハーバードに来たときから教えているもので、はじめはもっと最近の思想家にスポットを当てていました。それ以来、古典的な思想家達を講義に呼び入れ続けてきましたが、それでも重点は現代的なイシューと哲学的なテクストの間を言ったり来たりすること、哲学的問題を呼び起こす法的及び政治的なイシューから乖離してしまわないことでした。

あのようなスタイルの教え方をしているのは、わたしが講義を始めたとき、学生であるということはどういうことかということを忘れていなかったからです。学生であったころの記憶を持ち続け、思い出し続けることこそが善い教え方の真髄だと考えています。

学部生だったとき、わたしは政治理論を好きではありませんでした。それは抽象的で、遠く、現実から乖離しており、難解でした。教える側になったとき、わたしの頭にあったことは、「どうしたら学生としてのわたしの興味をそそることができただろうか?」ということでした。そのような観点から講義をデザインした結果、あのようなものになったわけです。

最初の年は100人ほどでした。それから300人ほどになり、400になり、800から1000人の間で落ち着くようになりました。

5. インターネットや公共放送を通じてさらに大きな観客を得るようになった今、政治理論家と世界との関係性について何か学ぶことはありましたか。どのような責任がそこに発生するでしょうか。

わたしはいつも、実際の政治や、公的生活の中で発生する議論を啓発する手段としての政治理論及び政治哲学、というものを重視してきました。哲学的な理念と、我々が生きている当の公的生活や、我々が持っている議論を結びつけること。この講義を一般公開し、公共放送に載せ、インターネット見られるようにすることは、それをさらに実践するための実験でした。

そして、この実験はまさしく魅惑的なものとなったと言えるでしょう。特に、アメリカ以外からの反応がわたしの興味をそそりました。これらの問題が、異なった文化的観点から、どのようにアプローチされるかについてずっと考えていたのです。本が出版されて以来幾らか旅をする機会がありましたが、わたしを驚かせたのは、世界中、特に東アジアにおいて、西洋の政治理論、および、このような仕方で政治理論と公的な問題について語ると言うことに対して、大きな関心がある、ということです。わたしが今興味を持っているのは、様々な文化をまたいで、このようなテーマを探索してみること、そして、それを通じて、どのような差異と、どのような共通点が見られるかを探索することです。

アメリカ以外の地域で、これらの問題への参与に対して、半ば飢えとも言っていいほどの大いなる興味があることに驚いています。公的な言論と生活が堕落しており、政治的議論の薄皮の下にある、正義や権利、共通善と行った大いなる問題が論じられていない、ということが様々な社会において感じられているのではないかと思います。公共の場におけるこれらの大きな問題に対する参与こそが求められています。

6. 教育論的な立場から、「正義」やあなたが教える他の講義から、新しく教鞭を執ることとなった教師が学んでおくべきことはありますか。

学生の関心を50分もの間引き続けることは非常に難しいということです。特に、政治理論のような難解な論題においては。

書かれたものを読んでいるだけでは、学生の関心を惹くことは不可能です。だから、実際に講義を行えること、テクストを脇に置いて、自分で話せることは、非常に重用です。書かれたテクストを読みながら学生の注意をひくことができる人間は非常に少ないと言わざるを得ません。そのような人間は確かに存在しますが、少なくともわたしはそうではありません。

重要なことは、論題をよく学び、何も読まずともそれらについて論ずることができるようにすることでしょう。それから、学生自身が意見を述べることができる場を作ることは重要です。質問をさせるだけではなく、テクストや、教師の意見に対して反応させるのです。

それだけで、講義はぐんと見違えると思います。学生の想像や、議論する力を動員するのです。よい質問があり、強い挑戦があれば、他の学生たちもそこから得るものがあります。

7. 我々の政治的生活の中で、あなたにとって最も理解しがたいものはなんですか。

世界の先進的民主主義国における政治的言説の無味乾燥さ、公的言論の内容の薄さです。それが最も驚くべき、そして心配すべきことでしょう。

それは部分的には、過去三十年間ほど続いてきた、経済による政治の駆逐の結果でもあります。我々は市場原理主義の時代を生きてきました。市場こそが公的な善を成すための一義的な制度だという前提から考えてきたのです。それは間違った考えであるし、人々はそれに対して疑問を投げかけ始めているとわたしは思います。

その結果として、政治的言説は、技術官僚的、経営的、そして経済的な用件にばかり気を取られてきました。ヨリ大きな公的及び倫理的問題は脇に置かれてきたのです。

これは「寛容」という概念のある形によってさらに強化されてきました。この寛容は、「人倫的及び霊的な問題には様々な立場がある。だから、政治的議論は、それらに対する参照を抜きにして行うようにしよう」という、善意の寛容です。しかし、それは結局のところ、政治における中身のある倫理的言論の空洞化に繋がってしまっており、人々はそれをどうにかしたがっているように感じられます。

逆説的に、そのような空洞化はしばしば、それを埋めようとする狭隘かつ不寛容で、時には原理主義的な声に対して、説得力を与えてしまいます。もし公的な言論が、対抗する倫理的立場及び概念に対しても直接的に関わり合う機会を育んでいれば、与えられるはずのなかった説得力です。

8. そのような政治的言説の問題に対して、どのような処方箋を書くことができると考えますか。

ふたつのレベルで展開することができるでしょう。

ひとつは、政治理論のレベルで、「多元主義的な社会、もしくは相互的尊敬に基づく社会は中身のある倫理的及び霊的な問題、及び、善き生に関わる問題を避けたり、脇に置いておくべきである」という前提を問い直すこと。(これはわたしが拙著で行おうとしてきたことでもあります)。

また同じく政治理論のレベルで、民主主義にかんする経済学的ビジョンに対して挑戦しなければなりません。

政治的実践のレベルでは、我々は、市民がヨリ直接的に、倫理的に中身のある公的言論に対して参与する能力を育み、奨励する方法を探すべきだと考えます。それには、政党やメディアが提供しない市民教育が必要です。

このような市民教育にかんしては、教育的な機関が場を提供できるでしょう。大学は学生に対して彼らの倫理的及び政治的議論や公的言論に対して参与する技能をみがく機会を提供する責任があります。

9. あなたはそのような言説における宗教の場所を擁護しています。なぜですか。

わたしは、いくつかの自由主義的な政治理論によって提示されているビジョンよりかは、ヨリ信仰に対して親しみ深い公的言論と公的理性の形態を好んでいます。

例えば、ロールズやハーバーマスがそれぞれの仕方で発展させた公的理性についての考え方を見てみましょう。お互いに同意しない部分はあれども、双方とも、公的理性は市民に対して特定の善き生の概念を説くべきではない、という考えを共有しています。わたしはそのような考えは公的理性としては狭すぎると考えます。彼らは、公共の広場に入りたければ、市民はその窓口に、普段抱えている霊的な信仰や世俗的だが実質的な倫理的思想をすべて置いてこなければならない、とするのです。

それは間違いです。わたしはすべての来客を受け入れるヨリ大きな公的理性の考えを支持します。だからといって、すべての人々が公的言論の場で成功できるし、そうすべきだ、と行っているわけではありません。しかし、信仰の伝統に基づく議論を政治の場で背負いたいと考える人々がいるのなら、彼らを排除すべきでない、と思うのです。

それは政治にドグマを持ち込んでしまう、と考える傾向もあります。だからこそ、宗教的な理由は公的言論の外に置いておくべきだ、ということにもなります。確かにドグマ的な主張は民主的な言説にとってあまり価値のある貢献でないことは認めますが、ドグマ的な主張は宗教的共同体によって独占されているのではないはずです。世俗的な伝統に立つ人々によって成されるドグマ的主張の例には事欠きません。

よって、わたしは理性のある公的言論を好みますが、だからといって、最初から特定の信仰の伝統や実質的な善き生の概念を反映する理由を排除しておくことはしません。

どのような議論が受容されるかは、行ってみるまで分からないものです。

これがロールズやハーバーマスとわたしが最も対立する点のひとつではないでしょうか。原則として、最初から、すべての人々によって受け入れられたり合意されるであろう理由を同定することはできません。何がすべての人々によって受容されうるかは、実質的な倫理的不合意に踏み込んでみなければ分からないものです。政治に対し特定の理由や主張が持ち込まれることを防ぐためにその要件を使うべきとは思いません。

10. あなたが現在行っている仕事について教えて下さい。

いまは、随分長いこと、遠回りをしながら関わってきた本を書いています。それは、市場の倫理的限界にかんするものです。

大きな哲学的理念は講義や論文を通じて発展させたり試したりしてきましたが、同時に、市場の問題を、実際に議論となっている特定の商品化との関わりにおいて論じたいと思っています。論争のある商品化についての様々な興味深い例を、新聞やその他の情報源から、長いこと集め続けてきました。

わたしの仕事は、学生や同僚との議論を通じて哲学的理念をつくりあげることと、それらと繋がり、それを際立たせる実際の例を集めることとが含まれています。クリッピングでいっぱいのファイルボックスがたくさんあります。新しい議論に対して哲学的な理念をぶつけてみることは、重要な問題を提起してくれるものです。

11. 仕事を通じて、古代の人であれ現代の人であれ、偉大な思想家達のもとへ戻っていると感じることはありますか?

いつもそうです。現在行われている議論が、プラトンやアリストテレス以来の哲学的問題へと繋がっていくことはしょっちゅうです。それが政治的理論を学ぶことの楽しみでもあります。世界で行われている議論に耳を傾け、新聞を読みながら脇に古い書籍を置いておくことです。

12. 最上の政治理論とはなんだと考えますか。二流のそれとはどう異なりますか。

政治理論の質は、問題がどれだけ興味深いかによって決定されます。

わたしが長年、いくつもの博士論文を読み続けることで発見したことは、最も優れた博士論文を見分ける方法は、それが答えようとする問題を見ることである、ということです。特に政治理論ではそうです。仕事の興味深さと質は、重要で面白い問題を見つける力に大きく左右されます。

そこで間違ってしまえば、賢く、良心的で論理的な、偉大な研究者になることはできても、あまりそれが興味深い、もしくは価値のあることだとは思えません。最も重要なたったひとつのことは、正しい問題もしくは問題群を見つけだし、選びとること、これです。

博士論文を脇にどけて、政治思想の歴史を見渡し、後世に残る著作を見てみれば、それらは、最も大きく、興味深く、重要な問題と向き合ったものだ、ということが分かります。それがよい、もしくは偉大な政治理論と、二流のそれとを分ける点です。

問題を選定し終わったら、わたしは方法論的には多元主義者です。それもラディカルな。わたしは正しい研究方法というもののいかなる有意味な判断基準も作ることができるとは思っていません。

これは他の政治科学の分野では異なるかも知れません(そうは思いませんが)が、メソドロジーそのものよりも、正しい問題を選ぶことの方がはるかに重要です。政治理論ではそこまででもないかも知れませんが、一般的に政治科学では、その逆を行ってしまう人が多いように見られます。方法論に主題を決定させてしまうのです。これは全く間違っています。それでは政治学は道を踏み外してしまいます。

13. 研究分野としての政治理論の将来に対して、あなたはどの程度楽観的ですか。

いつも、少なくともここ四十年間ほどは、政治の研究はヨリ科学的で厳密な土台を持つべきであり、政治理論など必要ではない、主張する政治科学者は存在してきました。しかし彼らの試みは全く成功していませんし、これからもしないでしょう。

政治の研究を諸科学のイメージに基づいて描こうとする試みは失敗を運命づけられているとわたしは考えています。だから、学術的な研究の主題としての政治理論の将来について、わたしは楽観的です。この楽観をさらに強化するのは、規範的問題はいつも、そしてこれからも存在するという知的な核心を別にすれば、それを学ぶ人間が存在し続けると言うことです。

政治学を学ぶものはなぜこの主題を選ぶのか。学部生であれ院生であれ、それは彼らがこの方法やあの方法について興味があったり情熱を抱いているからではありません(だいたいは)。多くの場合、彼らは特定の政治的問題について興味があったり、悩んでいたり、もしくは情熱があるからこそ政治学を選ぶのです。なぜ諸国家は時には共同し、時には敵対するか。戦争と平和、グローバリゼーション、市場の役割、平等と不平等、成功する民主主義とは何か、異なる文化や民族的背景をもつものが、共同したり敵対したりするのはどのようにしてか。

政治理論の大きなテーマに言及することなくこれらの問題を語ることは不可能です。大学や学術的共同体をエネルギーと好奇心、興奮と研究で満たすものは、実際に存在する政治的問題について学び手が持つ情熱です。それはすなわち、彼らにとって、政治理論は必要であると言うことです。

3 Comments

  1. リアル*

    2012-01-22 at 08:56

    3.の質問に対するサンデル教授の答え部分の訳ですが、spiritualはこの場合「霊的な」より「精神的な」のほうがふさわしい気がしました。

    この記事は非常に参考になりました。ありがとうございました。

  2. knagayama

    2012-01-23 at 02:26

    ありがとうございます。

    spiritual を physical の対義語として捉えるとたしかに精神的のほうがよいかもしれませんね。参考にします 🙂

  3. 質問3に対する答えの中で”the debate about the priority of the right over the good “の訳は「権利の善き生に対する優越性に関する論争」と訳したほうがふさわしいのではないかと思いました。

    とてもすばらしい記事を提供していただき、ありがとうございました。大変参考になりました。

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