福島第一原発をめぐる混乱はますます拡大し、もはやこれは敗戦であるという論調が目立ってくる。時代は反原発、そもそも原発をこんなに大量に設置するにいたった責任を誰が負うのかという問題意識から政府や東電に対する批判は強まる一方だ。確かに事態は敗戦後の様相を呈し、丸山眞男の「無責任の体系」が頭をかすめるばかりである。ちょうどよい機会だから、この理論とは一体何だったのかということをおさらいしておこう。

丸山眞男。1914年生まれ、1996年没。戦後最大の政治学者と言って差し支えないだろう。1946年、「超国家主義の論理と心理」を新刊雑誌「世界」に発表。一躍名を広める。専攻は日本思想史だが、日本ファシズムを論じた著作群もまた有名である。

さて、「無責任の体系」ということばは実のところ「論理と心理」には登場しない。そこで論じられているのはあくまで超国家主義における体系、すなわち中心に存する天皇からの距離において決定される臣民の歴史性と、天皇自身が一体化している「無限の古に遡る伝統の権威」から染み出す無限の価値、これであり、時空間理解を含む世界像こそが問題となっているのである。ここでは無責任の体系論の萌芽は見えれども明確な定式化は未だ無い。

「無責任の体系」という概念がヨリ意識的に定式化されるのは「軍国支配者の精神形態」においてである。この論文は、東京裁判における東條ら指導者層の供述から、「日本の戦争機構に内在したエトスを抽出しよう」とするものであり、ナチスとの比較において日本ファシズムの「矮小性」を指摘する構図となっている。

そこに登場する政治的人間像は三種類。第一は「神輿」。第二は「役人」。第三は「無法者」である。全引用する。

神輿は「権威」を、役人は「権力」を、浪人は「暴力」をそれぞれ代表する。国家秩序における地位と合法的権力から言えば「神輿」は最上に位し、「無法者」は最下位に位置する。しかしこの体系の行動の端緒は最下位の「無法者」から発して漸次上昇する。「神輿」はしばしば単なるロボットであり、「無為にして化する」。「神輿」を直接「擁」して実権をふるうのは文武の役人であり、彼らは「神輿」から下降する正統性を権力の基礎として無力な人民を支配するが、他方無法者に対してはどこかしっぽを捕まえられていて引き回される。しかし無法者ものべつに本気で「権力への意志」を持っているのではない。彼らはただ下にいて無責任に暴れて世間を驚かせ快哉を叫べば満足するのである。だから彼の政治的熱情は容易く待合的享楽のなかに溶け込んでしまう。むろんこの三つの類型は固定的なものでないし、具体的には一人の人間の中にこのうちの二つ乃至三つが混在している場合が多い。だから嘗ての無法者も「出世」すればヨリ小役人的にしたがってヨリ「穏健」になり、さらに出世すれば神輿的存在として逆に担がれるようになる。しかもある人間は上に対しては無法者として振る舞うが下に対しては「役人」として臨み、他の人間は下からは「神輿」として担がれているが上に対してはまた忠実小心な役人として使えるという風に、いわばアリストテレスの質量と形相のような相関関係を示して全体のヒエラルヒーを構成している。ただここで大事なことは、神輿─役人─無法者という形式的価値序列そのものは極めて強固であり、したがって、無法者は自らをヨリ「役人」的に、ないしは「神輿」的に変容することなくしては決して上位に昇進出来ないということであって、そこに無法者が無法者として国家権力を掌握したハーケンクロイツの王国との顕著な対象が存するのである。

これは昔々ある国に起こったお伽噺ではない。

ナチ指導者とは対照的に、日本の軍国指導者はみな口を揃えたように自らの無責任を主張した。彼らは無法者が先導して生成した「既成事実」へ「役人」として屈服し、「私の意見はどうあれども、いやしくも決定されたことに逆らうことはできぬ」として既定路線を突き進んだ上で、その官僚精神をもって「権限への逃避」を行い、「行われたことはすべて私の権限の管轄外である」としたのである。その矮小性は確かに明らかである。「土屋は青ざめ、古島は泣き、そうしてゲーリングは哄笑する」。

はてさて、我々は65年前の話をしていたはずであったが。