確か村上春樹だったか、小説を書く際に、本当にものを語っているのは、筆者でも読者でもなく、その間に浮かんでいるうなぎなのである、といったようなことを書いていたのは。誰かが口を開き、物語が始まるとき、それを語っているのは実のところ口を動かしている当のストーリーテラーではなく、そこにはいない第三者なのである、そうわたしはこの話を解釈している。現在私は修士論文に集中しなければならない身分ではあるが、文章をひねり出そうと思ってキイをたたいていると、まさしくこの表現は正しかったのだ、という気がしてくる。この論文は英語で書いているのであるから、筆者であるわたし、大文字の<I>が、読者であるあなたに向かって語る、という形式を必然的にとることになるが、この形式は実のところただの骸に過ぎず、本当にこの論文を書いているのはわたしではない、という気分が頭から離れないのである。

いや、むしろそう考えなければやってられないと言うべきだろうか。論文というものは非常に大きな物語の一部としてかかれるものである。すなわち主体はわたしではなく理性であり、人類学の歴史において今何が語られるべきかということこそが重要であり、論文に書かれるわたしの名前はその付属品に過ぎない。この中途半端なディシプリンが自らを近代的科学と呼び続ける限り(アメリカ大陸においては最近ではそれもまた怪しいと言うことであるが)、それは宿命であるといえよう。けれども結局のところ、実際に前線で石を積む作業を行っているのはわたしという身体である。だからわたしは、この身体性と意味性の乖離において、同時に語りの場に存在し、また存在しない。陳腐な、あるいは誤解に基づいたレトリックと嘲笑されることを恐れなければ、それをかの量子的な猫に擬えてもよいだろう。なんにせよ、この二重のありようが互いに重なり合うとき、そこにはわたしであってわたしでないもの、すなわちうなぎが観測者の目に発生するといえるのではないか。

さて、論文を提出するに当たっては、差異のみが価値となりうる。幾度となく繰り返されたアフォリズム。価値とはすなわち差異である…それを指摘する側に立つはずの人類学者もまた、その実践を通じて差異を通じた価値形成を行っている。どれだけよくできた論文であっても過去既に指摘されたことを反復しているのみであれば意味をなさない。けれども全くの異端、既存の可知可能性 intelligibility を完全に無視した作品もまた価値あるものとはいえない。重要なのは、ある程度反復であり、ある程度反発であるような、その微妙なバランスをつくこと、これである。けれどもそんなことが可能なのだろうか、海岸の砂浜の砂を、たった今収集し始めたような、修士課程の学生に?