以下は、トマス・ハイランド・エリクセンによる Anders Behring Breivik: Tunnel vision in an online world の全訳である。エリクセンは、ノルウェーの人類学者。ナショナリズムやエスニシティにかんする書籍を多数著しており、ブレイビクの1500頁にわたる「マニフェスト」で、唯一「ノルウェーの堕落の象徴」として名指しされた学者である。このエッセイは、インターネットによる選択的な情報の摂取がブレイビクの狭い世界観を形成したのであって、より広い目で世界を見るために新聞などの紙媒体で情報を収集することが重要だ、という論調になっている。その内容そのものに対しては色々と思うところがあるが、ノルウェーにおいて先の事件についてどのような言論が展開されているかを表す文章ではあると感じて訳すことにした。訳の正確性は保証しない。

アンネシュ・ブレイビクの世界観は、オンラインゲームと反イスラームのブロゴスフィアによって形成されたものと言えそうだ。社会が分裂していることを良く表している。

ノルウェーの警察がそこまで極右の活動に注意を払ってこなかったのには理由がある。単純に、そこまで目立っていないのだ。ノルウェー国内で極右を自称している人間は40人と予想されている。

しかし、ブロゴスフィアの暗部に詳しい人間ならば、インターネット上で激しい憎悪をまき散らしている存在に何年も前から気付いていた。「腐敗した多文化主義のパワー・エリート」を批判し、特にムスリムの移民について侮辱的な一般化を行う言論を生み出す人々である。

これらのウェブサイトやブログ、チャットグループに書き込みを行っている人間は、単に「右翼」というわけでは不十分である。「イスラーム化反対フォーラム」のあるメンバーは、同時に社会主義左翼党の党員でもあった。他の人々も、自らを社会民主主義的可知の体現者と見なしたり、啓蒙の火を燃やし続ける最後の砦だと主張したりしている。もちろん、より定型的な右翼的観点を保持している人々もいる。レイシズムをあらわにする者から、西欧をムスリムが計画的に乗っとろうとしているとする陰謀論者まで。毎日書き込みを行うものもいれば、月に一回やってくるものもいる。彼らが形成する緩やかなネットワークは、その数を予想することを困難にしている。

これらの人々が共通に持っているものは、まず、多様性の擁護者たちに対するルサンチマンである。これらの「エリート」は「反逆者 traitors」、「売国徒 sellouts」、「ナイーブな多文化主義者 naive multiculturalists」と呼ばれる。イスラームは西洋の民主的価値とは相容れない、ということも広く信じられている。この観点は、15万のムスリム人口(しかも増加中)を抱える国にあっては非常に問題だ。そのような考えがどれほど人口に膾炙しているか知るよしもないが、無力で無害なものとして片付けてしまうことはもはやできない。

今回、ブレイビクがはやりの服と髪型で着飾り、オスロのウェスト・エンドから来た国産のテロリストである─髭を生やした外国産のテロリストではない─という事実は、単に上記のネットワークのより詳細な検討のみではなく、ノルウェーの自己イメージそのものに対する冷靜な、しかし批判的な省察へと繋がるべきだ。ノルウェーという国の成員となるためには、宗教や肌の色はまったく関係がない、ということを我々のリーダーが明確にすることは多くを安堵させるだろう。1905年から1957年まで王位に就いていたホーコン7世は、自身が「共産主義者の王でもある」という有名な台詞を残した。ハーラル5世もまた、自身が「ノルウェーのムスリム、シーク教徒、ユダヤ人、そしてヒンドゥ教徒の王でもある」ことを明確にすることが、現在の状況に対する最善の応答となるだろう。それは言うまでもないことなのかも知れないが、このような言明は、強い排外主義と宗教的偏見がことばを失うほど凄慘な行為の思想的なインスピレーションとなってしまった今日の空気を少しでも清淨化する機能があるはずだ。

どんな国も、ある程度の繋がりが必要だ。それが実際にいかほどのものかは、正統な議論の対象とすることができる。文化的多元主義は国の分断と信用の失墜へと繋がると考えるものもいるだろう。それはある場面ではそうかも知れないが、常に真実であるわけではない。教育や住宅供給、仕事といった共通のインフラや制度がきちんと公平に機能する限り、社会は多様性を受け入れながら存続することができるはずだ。しかし、我々が対話を止めてしまった瞬間、崩壊は忍び寄ってくる。これが、ブレイビクとそのシンパたちに起こったことだ。彼らはインターネット上で別の現実を作り上げてしまったのだ。

インターネットによる公共圏の分断は学問上及びジャーナリズム上の関心事となってきた。ここ最近では、エリ・パリサー Eli Pariser の The Filter Bubble が、いかにして Google や Facebook といったインターネット企業が、我々のウェブ検索やアップデートを、ユーザープロフィールや過去の検索履歴に基づいてフィルタしているかをよく描き出している。私が環境保全主義者であれば、Google で「気候変動」と検索した際、石油会社の重役であるあなたとは異なった結果を得る、というわけだ。このフィルター・バブルはたとえば Amazon でも最適化されたオススメを表示したりする。知らない間にそれは我々のウェブ検索の背後で動作し、我々が気付かぬうちに既存の世界観の再生産を促すのだ。結果、我々はお互いにはぐれてしまい、異なった世界に住むことになる。

ブレイビクは自らイスラモフォビアや極右的なウェブサイトによって洗脳されることを望んだのだろう。けれども、もし彼が情報を新聞から摂取していれば、そこにはヨーロッパの自信の失墜や軍事的イスラームの勃興以外のニュースが記載されていただろう。あの週末の衝撃と不信から一つ学ぶことがあるとすれば、文化的多元主義は国民的な団結に対する脅威とは必ずしもならないかも知れないが、インターネットを通じた選択的な情報の摂取から得られる狭い世界観は脅威となる、ということである。