ひょんなことから「ソーシャル・ネットワーク」を見た。おそらくは見ないで終わるであろう、と思っていた映画であったので、少し驚いた。公開当時から話題になっていてはいたが、様々な方の寸評を見聞きして、まあ、わたしには関係のない物語に違いない、と感じたので、時間とお金を費やしてわざわざ見る、という気分にはならなかったのである。

けれどもどういうわけか、時間もお金もそう使わずに、向こうから見てくれとやってくることになった。具体的にいえば、と書こうと思ったが、まあ具体的にいう必要はあるまい。何はともあれ、DVDが我が家に、親しい友人と共にやってきた、と思ってくだされば良い。

そういうわけで男3人、膝つき合わせて映画を見た。ソファの上で友人が姿勢を変えるさまを横目で見ながらジェシー・アイゼンバーグ演ずるマーク・ザッカーバーグの貧乏揺すりを鑑賞したのである。

ジェシーはまさしくユダヤ系アメリカ人、という外見であると思う。声の響きから立ち振る舞いまで、本当に何から何までわたしのユダヤ系アメリカ人の友人とよく似ていた。というか、友人を見ている気分になった。ユダヤ人の男とアジア人の女、という話が劇中でもあったが、彼もまた東アジアの女性を好んだ。当時のわたしには良く理解できない性癖ではあったが、あれはアメリカ社会の何らかの構造を反映していたのかも知れない、等と考えながら、アイゼンバーグのあまり動かない表情を見つめていた。そのせいで多少感情移入して楽しむことができたようにも思う。

閑話休題、映画の感想である。結論から言えば思っていたよりも良かった。何も期待していなかったから、かも知れないが、様々な点で楽しめることが多かった。たとえばアメリカで女性として生きることはどういうことか、という点も考えさせられたし(「わたしはスカーフを巻くような類の女ではない」という強烈な主張や、自らを純粋なオブジェにまで加工することの出来るある意味での極地を見せつけられた)、マーク・ザッカーバーグはやはり非常なる凡人であるな、という感想から、このような人物が突如として億万長者になるということはいかなることか、ということをしばし考えたりした。

何よりも感じたのは、タイトルの通り、合衆国とは哀しい社會であるな、ということであった。劇中に登場する様々な人間─マーク、エドュアルド、ショーン─は、みな何かしら欠けているが、何に欠けているのかもわからないほどに、その欠落性に囚われているのではないか。彼らはことあるごとにパーティーを行うが、その熱狂は何かからの逃避であるようにしかわたしには見えなかった。

うむ、なるほど西洋社会の人間は、ことあるごとに寄り集まって酒を呑み、部屋を暗くして踊り明かす、という奇妙な風習を持っている。劇中にも出てきた台詞であるが、制御を失うことを何よりの目的にしているようである – everything will be out of control, you have to come and see how it goes! – それは日常があまりにも制御されすぎているからか?制御を失うために場をあつらえるとは、果たしてどういうことであるのだろうか?

等と考えているうちに劇中の審問は終わり、ザッカーバーグが独りパソコンの画面へと向き合う孤独なラストシーンが訪れる。はて、この映画は何を描きたかったのか?「億万長者となった彼は、しかしいまでもあのボストン大学のドイツ系の娘を愛していたのでした」という悲哀の物語か?「起業には様々な物語があり、成功者の背負うものも決して煌びやかな過去だけでは無い」という若者への警鐘か?

むろん解釈はひとつではない。映画には様々な見方があってしかるべきである。けれども、少なくともわたしには、この映画が、現代のアメリカに生きることの悲哀を描き出しているようにしか見えないのである。