時は21世紀前半。我々は情報社会に生きている、と人は言う。インターネットは吾々の生を益々簡便なものにし、さまざまな障壁を取り払う。かつてある哲学者は資本こそが最も冷徹な地ならし屋だと考えたが、いま人々の生活世界を恐ろしいスピードで水平にしていくのは吾々をつなぐネットワークとそこで伝達される情報である。そして吾々は、それがよいことであるような気さえしているのだ。

けれども前世紀のおわりに楽観的な識者たちが夢見たようにインターネットが世界を益々民主的に変貌させていくということはない。たしかにソーシャルネットワークはトリポリで革命を起こしたかも知れないが、情報が資本と同じような差異の運動のさなかにその本質をもつというのならば、その自由な流通の結果発生するのは、情報を多く持っているものと少ししか持っていないものの格差なのではないか。

近年、情報強者と情報弱者という対立軸を耳にするようになった。グローバリゼーションの波にうまく乗った情報強者はインターネットを使いこなし自在に情報を摂取し編集するが、弱者は情報の海の中に溺れいまにも窒息するおそれすらある。或いはこれは日本的ガラパゴスにおいては PC を利用する層とガラケーを利用する層の二分化としても特徴付けられるかも知れない─その場合は後者は情報の波に触れてすらいないということにもなろう。

最近流行の所謂ソーシャルゲームを遊んでいるのは後者の人々であるという。曰く、グリーや DeNA の提供するゲームは、PC を利用して(情報強者によって)作られているにもかかわらず、情報弱者によって利用されている。六本木ヒルズで作成されたソーシャルゲームは、高速道路を走り回ることを生業とするトラックの運転手の左手で遊ばれているというのだ。

それがどれだけ本当かはわたしは知らない。けれども、「大衆のための娯楽」としてのソーシャルゲームが社会の特定の層によって遊ばれている、というのは、たしかに有り得そうな話ではある。少数の強者が多数の弱者のために大量の娯楽を生成し、売りつける。それは、はて、かつて様々に到来を予言されていた社会のいち構図ではなかったか。

ジョージ・オーウェルが「1984年」で描き出した社会には、プロレフィードという言葉がある。それはこの小説の舞台であるディストピアにおいて搾取される社会的階級、「プロレ」に対して支配者たる党から提供される小説や映画、音楽などのエンタテイメント一般を指し示している。必要な情報が与えられず、何が真理であるかが日々変更され、歴史が書き替えられ続けるこの社会において、プロレたちは党のインナー・サークルによって飼い慣らされ、愛国心を注入されて満足した生活を送っている。しかしこの言葉が示すとおり、党はプロレに供給されるこれらの娯楽を、彼らに与えるための「餌」とみなしている。党のアウター・サークルがインナー・サークルの機嫌を伺い忠誠を示すペットだとすれば、プロレは純然たる家畜として認識されているのである。

動物。まさしく党の標語は(かの有名な「戦争は平和である」の他に)「プロレと動物は自由である」というものであった。ポストモダンが到来したといわれて幾何かが経過した今日において、吾々はすっかり動物として生きることに慣れてしまったのであろうか。

いや、何を言っているのだ。吾々はイングソックの支配下に生きているわけでもないし、ソーシャルゲームを生産している会社が何らかの惡しき意図を持っているわけでもない。そこにあるのは純粋な利得計算だ。遊ぶ人間がいて始めてこのビジネスは成立しうるのであって、そこには全体主義的な意図など何もない。

それでも、歴史が終わった後に民主主義と資本主義が支配するこの世において、人々が自由に興じているはずのソーシャルゲームが、かつて全体主義的社会の象徴として恐れられたプロレフィードをどこかしら思わせるということは、何とも皮肉なことではないか、と思うのは、わたしだけではあるまい。