テッサ・モーリス=スズキが Japan Focus に寄稿した「安部ナショナリズムの再ブランド化(英語)」によれば、ケヴィン・ドークなる米ジョージタウン大学教授は安倍晋三のナショナリズムを高く評価しているという。

ドークは、ナショナリズムを「市民的 civic」な形態と「民族的 ethnic」な形態の二種類に弁別し、安倍のそれは市民的であって、弁護されるべきナショナリズムである、としているようだ。

モーリス=スズキも指摘しているように、このような二分法はすでに数多くの論者によって批判されてきた。ナショナリズムはひとつの現象として捉えられるべきものであって、それがどのような形態で発露するかは二次的な問題にすぎない。市民的に見えていたナショナリズムが、ある日突如として特定の民族への憎悪を語りだすのはそう珍しいことではない。それは表層的には異なるもののように見えるが、より深いところでは同一の機制によって働いているものなのだ、ヤヌスの二つの顔のように。

一方で、だからといって、ナショナリズムを全面的に否定する訳にはいかない。それは近代において曲がりなりにもデモクラシーというものを成立させた要因の一つなのだ。ナショナリスティックな動員というものは、軍事的に利用されたならば恐ろしい暴力を生み出すが、我々はそれなしでは市民が選挙という面倒なプロセスへとコミットすることの意味付けを満足に行えないのである。

我々の課題は二段階的である。すなわち、

  • ナショナリズムの発生し作動する内的機制を理解し、その諸形態を説明付け、
  • 適宜各国のナショナリズムを制御し、暴走を阻止すること。

これら二つの課題に向きあって初めて、ナショナリズム研究というものに意味があるということができる。

この意味で、現在のナショナリズム研究はまだ発展途上である。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエリック・ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』などは重要な著作だが、それは歴史的現象としてのナショナリズムを取り扱うことに専ら注力しており、その内的機制をきちんと問うところには至っていないとわたしは考えている。アーネスト・ゲルナーの理論については、ここのところ、再検討の余地があるのではないかという気もしているが、まだそこまでしっかりと読み込むには至っていないのが現状だ。