わたしも、日々Facebookなどで結婚の報告が見られる歳になり、巷の恋愛/結婚に関する意見なども読むようになった。婚姻をめぐる言説は非常に興味深いが、単に読むだけでなく、個人的意見を挟み、言説空間へと参画していくことも重要かと思われるので、書く。

しばしば見られる誤解だが、結婚と個人の幸福は関係がない。

社会制度としての婚姻は親族の、ひいては社会の再生産のためにあるのであって、個人を幸福にするためにあるのではない。多くの人間社会においては、結婚するか否かということのみならず、誰と結婚するか、ということまで、個人の意志とは関係なく決定される。結婚、および再生産は義務であって、そこから逃れることはできないし、その相手も自由に決めることはできない。重要なのはその親族共同体に属する子供が生まれることであって、夫婦が幸せか否かというのは二次的な問題である。特定の相手との結婚が構造的に奨励される場合でなくても、特定の相手との結婚の禁止─いわゆるインセスト・タブー─は存在することがほとんどである。

個人的自由の尊重は近代の画期的な発明であって、個人的幸福及び自由への権利、という発想が導入されることによってはじめて、不幸な結婚を回避することができ、構造的に決定される結婚相手から逃れることができる。

「運命の相手と結婚する事こそが幸福である」という信条は、このような時代にあって、再生産への親族的要請と、個人的幸福の希求の「イイトコどり」をすることができる、みごとな折衷案である。婚姻相手は自由に決定することができるが、結婚はしなければならない、というわけだ。少なくとも日本における近代的結婚は、このようなものとしてイメージされてきた。

けれどもこのような信条はより個人主義が優勢になるにともなって支持することがますます難しくなってきている。当然ながら、婚姻自体を幸福としない人間もまた存在するからである。義務としての婚姻、という論点を出さずに、個人的幸福の最終形としての婚姻、という議論だけを維持することはできない。

一方で、人間のクローン技術が完全でなく、また人間を成年にまで育てるには少なく見積もっても16年ほどかかる以上、社会の再生産は親族単位で行われなければならない。成長する過程でひとりひとりに手厚いケアを与える制度を親族なしに整えることは非常に難しい。もちろん、たとえばSF漫画「地球へ…」で描かれたような体制を実現することは、将来的には可能になるかもしれない。しかし、我々人類にはさしあたって婚姻が必要なのだ。

問題は、個人的自由と、再生産の必要性とをいかにしてバランスさせるか、ということである。「結婚こそが個人的幸福である」という信条はその一つの解であったけれども、それが唯一の解であるわけではない。他の解を導くことは、政治哲学者だけでなく、我々一人一人がなさなければならないことであろう。