親は死ぬ。これは親が人間である限りにおいて真実である。人の親は人であり、そして、人は必ず死ぬ。

わたしの父は10年前に死んだ。53歳だった。わたしはその時18歳の若造で、近親者の死はまだ経験したことがなく、ましてや、親が死ぬということの何たるかもわかってはいなかった。

けれどもこちらに準備ができていようといまいと、死はやってくる。ときに突然に、ときにゆっくりと。父の場合は突然だった。彼は一人でスキーに向かう祝日の早朝、居眠り運転のタンクローリーに追突されて死んだ。即死だったという。その時たまたま母も姉も家にいなかったので、警察からの電話はわたしが出て、遺体の本人確認ももわたしが行った。母はパニックになり、現実を受け止められない様子であった。「お父さんは今、どこにいるの?」と電話で聞いた彼女に対して、「霊安室にいる」と答えることは、わたしが人生で口にした中で、最も残酷な一言であったと思う。

近親者の死の受容には幾つかのステージがあると思う。死して暫くの間は、その事実が現実味を持たない。玄関のドアが開くたび、携帯の着信音が鳴るたび、あるいは夜中ふと起きて冷蔵庫に向かうたびに、父がいるのではないか、父からの連絡なのではないか、と思う。当然そんなことはないのだが、そんなことはないのだ、ということをまだどこかで納得出来ないのだ。

それが終わると悲しみが押し寄せてくる。父に関することを考えたり書いたりするだけで涙がでるような時期がある。自分の父でなくても、父子関係に関する少しでも感動的な話になるともうだめである。そういう時間が暫く続く。

けれども、その時期が終わると、乗り越えたことになるのだろうか?おそらくそうでない。愛する人の死を乗り越える事はできないのだと思う。家族は今でも悲しみを背負っているし、うまくそれについて話すこともできない。喪はある意味ではいつまでもあけないのだ。悲しみは消えないし、それを抱きつつ苦しむしかない。

我々にできることがあるとすれば、それは、忘れないこと、語り継ぐこと、そして、その人物が生きていればしたであろうことをなすこと、その程度のことだ。

もうすぐ祖父も逝く。わたしは再度、死に向き合うことを考えなくてはならない。