ウェブライターであるヨッピー氏が、「ネイティブ広告ハンドブック」のわかりにくさと、そのわかりにくさを指摘した際発生したコミュニケーションに対して大いにお怒りである。こういったコミュニケーションの齟齬は、何故起きるか。以前から考えていたことを適用するよい機会なので、書く。

特に日本語におけるコミュニケーションに関して知っておくべき事は大きく二つあるとわたしは考えている。それは、「ハイコンテクスト(高文脈)な文化」、および「パフォーマティブ(行為遂行的)な発話」である。これらのことさえ飲み込んでしまえば、日本人とのコミュニケーションはバッチリ理解できるといっても過言ではない。

「ハイコンテクスト文化」は人類学者の考えた概念で、「ローコンテクスト文化」の対義語である。ざっくりと言ってしまえば、ハイコンテクスト文化においては、言葉の選択や発話のタイミングによって、実際の文章が指示しているものよりも遙かに多くのメッセージが伝達される。日本語はその最たるものである。Wikipediaが提示している、わかりやすい具体例を見てみよう。かかってきた電話をいま取った、と仮定せよ。そこから以下の質問が聞こえてくる。

日本語: 花田さんはいらっしゃいますか。
英語: May I speak to Ms Hanada? (わたしは花田さんと話すことはできますか。)

さて、どう答えるべきか。

日本語においては、「花田さんがいるかどうか」を聞いているだけに見えるので、「はい、います」あるいは「いいえ、いません」が正しい答えのように見える。しかし、実際には、日本語ネイティブがこの文章に遭遇した際、かれは「はい、いまかわります」と答えるであろう。これは、「電話に出た際にいるかいないかを聞いていると言うことは、当然、花田さんと話したいということだ」という推論を基にしている。

ここまではよい。

実際に日本人とコミュニケーションを取る際に問題となるのは、以上の性質の結果として、メッセージ伝達の責任が、話し手にあるのか聞き手にあるのかが変わってくる、ということである。一般的な日本語のプロトコルでは、メッセージの伝達に責任を持つのは聞き手である。一方、米国英語などのプロトコルでは、メッセージの伝達に責任を持つのは話し手である。どういうことか。

上記の例で言えば、「花田さんと話したい」という真のメッセージが話し手から聞き手に伝達されることに対する責任は、聞き手にある。それを把握せずに、「はい、います。花田さんがどうかしましたか?」と聞き返すことは、聞き手がその責任を放棄しているということであって、日本語のコミュニケーションとしては失格なのである。

だから、このプロトコルを前提として生きている人は、「わたしが受け取ったこのメッセージの真の意味は何か?」ということを常に考えなくてはならないことになる。一を聞いて十を知る、すばらしいことだ…と言うこともできるかもしれない。

しかし、二つのプロトコルが衝突するとき、これは大きな問題となる。1を聞いて十を知る、いや、知らなくてはならない、と考える人間(仮に甲としよう)は、1を聞いて1を知ることは責任の放棄だと考えるようになる。一方で、メッセージの伝達に責任を持つのは話し手であるというプロトコルに基づいてコミュニケーションを行う人間(仮に乙としよう)は、1を言って1が伝わるとは限らないため、1を伝えるためには3言わねばならないと考えるようになる。

結果どうなるか。乙が3言ったことに基づいて、甲は30理解することになる

乙であるヨッピー氏は、「発信者側もなるべく多くの人に理解されるようにコンテンツを作るべき」と言っただけのつもりであった。しかし甲である藤代氏は、「いまや誰でも発信者になり得るから、素人ライターでいいんだ」というメッセージとして受け取ったのである。

何たる悲劇であらう。

教訓1。日本人とのコミュニケーションにおいては、メッセージの伝達の責任者を予め明確にすべし。

次。「パフォーマティブ(行為遂行的)な発話」とはすなわち、「それによって意味伝達以外のことを成し遂げようとする発話」ということである。どういうことか。例を挙げよう。

わかりやすいのは、キリスト教の結婚式の際、新郎新婦が「誓います」ということである。彼らは「誓います」と言うことで誓いを行う。すなわち、単純に意味伝達のためだけではなく、誓いという行為を遂行するために発話が行われている

もちろん、発話が社会的行為である以上、どのような発話もある程度のパフォーマティビティを帯びる。しかし、純粋にパフォーマティブな意味を持ってなされる発話というものもある。そしてそのようなものは、しばしば暗黙のうちに行為を遂行しようとするのだ。ここで見られる高広氏の発話もそのようなものだ。

つまり、ここで高広氏が「メディアってなんですか?」と聞くことによって成し遂げようとしているのは、ヨッピー氏がメディアの何たるかをどう考えているかを知る、ということではない。その後の会話の発展を確認した上でのわたしの推測によれば、それはもっと別の目的で行われている。すなわち、ヨッピー氏に、「ヨッピー氏と高広氏の間にある暗黙の格の違い*」を認めさせ、もって(ヨッピー氏のつぶやきによって乱されてしまった)広告業界における「規範*」を取り戻すこと、である。発話の内容はこの際何でもよい。

すなわち示威行動である。こういった行為遂行的発話は、「ここはわたし(あるいは我々)のナワバリである」、「ここからは入ってくるな」というメタ・メッセージを伝えるために行われるのであって、「メディアとは何か」に関する建設的な議論を行うために発せられるのではない。だから、純粋に意味内容に基づいて議論を行っても、話がすれ違うばかりで意味がないのである。

特に日本人とのコミュニケーションにおいては、上の高文脈性と合わさり、非常にハイコンテクストで実際には聞き手側からすると理解しきれない行為遂行的メッセージを話し手が発している可能性がある。

教訓2。相手の発話が行為遂行的な意味を持っている可能性を吟味すべし。

こういった高文脈性・行為遂行性は日本語だけに見られるものではないが、特にそれに顕著に見られると言うことは事実であろう。

さて、以上では特に日本人のコミュニケーションにみられる奇妙な生態に関して、その完全な外部者であるかのように筆を進めてきた。けれども何を隠そう筆者も日本人である。個人的意見を述べさせていただければ、益益文脈を共有しない人間との会話を行う機会が増える今日の世界において、こういった高文脈性にしがみつくのは大変効率が悪いことではないか。それは確かに美しい文化を創り上げてきた一面もあるが、今日においては、むしろ害悪の方が大きいのではないか…とわたしは思う。

* 「格」「規範」というのも大変興味深い人類学的テーマなのであるが、ここでは紙幅が足らぬ故割愛する。

追記: 特に行為遂行性に関してはどの文化にもより普遍的に見られることは間違いない。明確化のため追記しておく。