人格と情動と脳内麻薬と


遺伝子工学から機械学習まで、近年さまざまな技術の発達により20世紀に危惧されていた様々な倫理的問題がますます鋭いアクチュアリティを持って現実にもたらされようとしている。ますます解明される意識や情動と物理的な脳の関係性もそのひとつである。

我々の意識に現れる情動のすべてを操作可能な脳内の物理的現象に還元していったとき、我々には何が残るのだろうか。愛も憎しみも喜びも、あるいはこの悲しみさえも、すべてがハック可能な脳内物質の作用だと言うなら、意識としてのわたしが感じるその情動の真正性というものは何処にあるのか。

真正性というものは存在しない、いや最初から存在しなかったのだ、脳内活動のメカニズムが未だ解明されていなかった時代の蒙昧な考え方に過ぎない、と考えることもできる。わたしがそれを感じているということのみによって、意識がどのような物理的現象に支えられているかに関係なく、そこに真正性というものが見出されるのだ、ということもできるだろう。そもそも真正性ってなんですか、と問うこともまた可能であろうし、そんな問題は近代薬学というものが発展する頃から、あるいはそれ以前から行われた議論であって目新しさはなにもない、と切り捨てることもできるだろう。

最近、ADHDの子供の脳にはある一定の器質的特徴があることが発見され、診断精度の向上と治療効果の測定につながることが期待されているという。皮質の厚みと面積だけでADHDが否かがわかり、そして投薬によって正常な行動へ戻すことができる、それはよい話のはずだ。

短期的にはそれで良いのかもしれない。けれども一歩引いてみて考えた際、我々がここで「正常」としているものの正常性は一体どこに根拠を持っているのだろうか?精神的疾患と認められるか否かはしばしば日常生活に支障をきたすかで判断されることが多いが、この定義でもなお、「支障」とはなにかを客観的基準によって定めることは容易ではあるまい。ある一定の範囲を「正常な社会的行動」と定め、そこからはみ出すものに物理的原因を見出し、投薬処置を行うことによって正常に戻す、この社会的制度の権力に違和感をおぼえることはおかしいだろうか。

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