Author長山 燕石

サルは搾取されているのか?

タイのココナツ産業ではサルが奴隷的労働を強いられているという報道が見られる。わたしは実際にフィールドワークを行ったわけではないので一次的な観察はできていないが、ハワイ大学の人類学教授、レスリー・スポンセルの意見を載せておこうと思う。スポンセルは実際にタイ南部で人類学的フィールドワークを行っており、サルと人間の間の関係性に関して論文を出しているようだ:

2002 “Monkey Business? The Conservation Implications of Macaque Ethnoprimatology in Southern Thailand,” (with Nukul Ruttanadakul and Poranee Natadecha-Sponsel) Primates Face to Face: The Conservation Implications of Human-Nonhuman Primate Interconnections, Agustin Fuentes and Linda Wolfe, eds., New York, NY: Cambridge University Press, pp. 288-309.

2004 “Coconut-Picking Macaques in Southern Thailand: Economic, Cultural and Ecological Aspects” (with Poranee Natadecha-Sponsel and Nukul Ruttanadakul) Wildlife in Asia: Cultural Perspectives, John Knight, ed. New York, NY: Routledge/Curzon, pp. 112-128.

スポンセルは、NPRの取材に応じてこう語っている:「わたしたちがタイ南部にいた間、サルに対する虐待や搾取を目にすることは一度もありませんでした。サルはペットに非常に近いもので、幾つかの家では既に家族の一員とまでなっていました。若い猿は訓練され、首輪がつけられ、仕事をしていない時はシェルターに入れられます。彼らは餌と水を与えられ、風呂に入れられ、毛並みを整えられるなど、様々なケアを施されます。ココナツのプランテーションでは、しばしばモーターバイクやカートの後ろに座っているのが見られます。もちろんこれは虐待が全く無いということではありませんが、わたしは家族を助け、生き延びようとする貧しい農民たちを尊敬しています。」

よく訓練されたサルは、1日に平均して1000個のココナツを拾うことができるという。聞いた話だが人間は80個らしいので、労働効率は大きく違うようだ。

原文は What’s Funny About The Business Of Monkeys Picking Coconuts? – NPR で読むことができる。

Google Compute Engine 上で WordPress インスタンスを走らせる

このブログはもともとさくらのレンサバ上で動かしていたのだが、小さなブログひとつのためにレンタルサーバーを維持するのはオーバーキルだなという感じがしてきたので Google Compute Engine に移してみた。

移行は容易であった。cloud.google.com から自分のダッシュボードへ行き、Cloud Launcher から Bitnami の提供する WordPress パッケージを選ぶだけ。あとは古い WordPress からデータを移行して、ドメイン名からのひも付けを再設定すれば終了だ。

今のところ3日間利用して $0.5 しか課金が発生していない。ステマになってしまうが素晴らしいサービスである。

倫理について

「現実」というものは、そもそも、本来的には非-倫理的なものであって、それによって束縛されるということがない。

しかしながら、「だから、倫理というものは真剣に学として考える必要がないものだ」、という主張は誤りである。人間がこの「現実」と関わり、それを理解するためには、行動のフレームワークとしての倫理が必要なのである。何をなし、何をなすべきか、あるいは何をなすべきでないか、何をなさないか、それを決定するのは唯一倫理のみなのであるから。

民主主義的プロセスについて

安保法案をめぐる与党の動きに関して、民主主義とはなんぞや、という問が散見されるので、覚書を残しておく。

民主主義は、それ自身が運動でありプロセスであるということにおいて他の政治形態とは異なる。それはいわば「過程の哲学」の上に成立しているのである。

例えば多数決について、仮に数が多ければ多いほどよいという考え方のみに立てば、全員一致が一番よいということになる─伝統的な閉じた共同体というものは基本的には全員一致をよしとするものである。その中においてはひとつの価値のみが共有されており、それを共有しないものは村八分にされることによって全員一致が保たれることになる。

しかしながら、近代的な民主主義における多数決はこれとは異なる。そこでは、異なった意見が存在することが積極的価値として見出されているのである。様々な意見が存在することが当たり前であって、それがないことはかえっておかしいという考え方に立てば、全員一致はむしろ異常事態である。ここで初めて、少数意見に対する寛容の精神が重要視されるようになる。

民主主義的な多数決においては、多数と少数との議論によるプロセスそのものが重要なのであって、単に投票の結果だけが重要なのではない。この点こそが、伝統的な共同体における全員一致と、近代的な民主主義というものを分かっている。政治は単に「勝ち負け」によってのみ成立するものではないのである。

ある自民党の政治家は、「選挙に勝った以上、国民は政治というものを政治家に任せていただきたい。野党と話し合いということは基本的にしない。選挙に勝って国民の審判が下ったのだから、政治に関しては与党の思うとおりに動かしていく」という旨の主張をした。これは「勝ち負け」で政治を判断してしまう悪しき例である。政治は、残念ながら、スポーツではない。

悪法が通った、盛んに反対したけれども結局通ってしまった、通ってしまったら終わりである、という考え方は、多くの人間によって共有されているように見られるが、これも勝ち負けで政治を判断しており、誤りであると言わざるをえない。悪法が通ったのならば、それが少しでも悪く適用されないように、尚努力をする、終局的には撤廃されるように努力をする、ということをしなくてはならない。しばしば、いわゆる「文化人」などは、いくら反対しても通ってしまうのだから、反対しても意味は無い、といったことをいう。けれども、ある方が望ましくないというとき、その反対する力が強ければ強いほど、そのほうが成立する過程において抵抗が強ければ強いほど、できた方の運用をする当局者は慎重にならざるを得ない。たとえば秘密保護法などはあまりよい法律ではない、とわたしは思う。この法制についても、ワーワー反対して騒いだけれども現実にはあまり適用されていないではないか、という人がいる。けれども実際は、あれだけ反対があったからこそ、うっかり適用できない、というほうが現実に近いであろう。投票の結果において通るか通らないかということは、政治過程における一つのファクターであるけれども、すべてのファクターではない。負けちゃったじゃないか、いくらやってもだめじゃないか、という発想には、反省されるべき勝負思想というものが非常に大きく働いているのである。

さて、碩学な読者は既にお気付きの通り、上の文章は丸山眞男「政治的判断」のほぼ丸写しである─杉田敦による『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)、385から388頁による。文中に出てくる「破防法」は「秘密保護法」に変更してみた。これは1958年の講演をベースにしたものだが、状況があまりに変わっていないので驚かされる。すべての読者に一読をおすすめする。

米国勤務雑感

米国カリフォルニア州に移動して九ヶ月ほど経過し、色々とわかってきたこともあるので、雑感をまとめておく。

わたしは基本的には同一の会社内で、東京支社から本社へと移動した。東京支社では同僚のほとんどが日本人であり、労働現場での共通言語は日本語であった。当然ながら米国ではそのようなことはなく、ずっと英語である。そのためか多少英語が上達したと思う。以前はある話題について何を発現するか事前に脳内を整理し、処理しておかなくてはいけなかったが、現在では多少なら思考しつつ発話することが可能になった。

労働はしやすい。大変風通しのよいチームで、自宅勤務 (WFH) も必要に応じてすることができる。日本では勤務態度について厳しいコメントをされることもあったが、米国では比較的まじめに職場に来ている方であると思う。これはもちろん、企業、さらにはチームによるであろうから、一般化はできない。私の場合には、ということである。

大変興味深い住宅事情や、地形・気候などの地理学的洞察についても書きたいが、トピックをあえてひとつに絞るならば、「どのような人間として評価されるか」ということが大変に変わった、ということを特筆すべきであろう。

わたしが務めている会社では、ピア・レビューといって、共に働く同僚に「この人間はこの点がよく、改善点はこうである」、などといったフィードバックをお願いする制度がある。その際に偉えるフィードバックは、第一には自己にとっての最適化目標を提示するものなのだが、他方ではその職場環境がどのようなものであるかについての知見を提供してくれる。日本では、わたしが得られるフィードバックの大半は、「論理的なところがよい。コミュニケーションのとりかたをより改善すべき」というものであり、同じような意見を得ることをある程度期待していたのだが、米国で得られたものは全く異なるものであった─同僚の大半が、わたしを「実行力があるところがよい」と評価し、「論理的」、あるいはそれに類した評価を下した人間は一人もいなかったのである。そのような意見は、日本滞在時には見られないものであった。

特に仕事のスタイルを大幅に変えたという自覚はない。当然ながら環境に影響されて無自覚的に行動パターンは変化しうるのであるが、これはどちらかと言うと、そのチーム、職場の環境がどのようなものであるか、そこで何が望ましい、あるいは望ましくない行動として捉えられているか、という認知の構造を表しているものであるかのように思われる。

同一の会社内でオフィス間を移動するだけで大きな変化が見られるということは、多国籍企業を経営していくということの困難さを端的に表している。特にいわゆる「外資系」企業においては、本社が重要視する文化や価値観というものを、いかにして他国で醸成してくか、という大きな課題があるように思われる。当然ながら、それを諦め、現地流の経営に任せる、というやり方もひとつの解ではあるのだが、支社内で何が起こっているかがブラックボックスになってしまう危険も伴う。この辺り、経営学などの分野においては既に先行研究がありそうだ。

大阪都構想に関して

大阪都構想に関する住民投票が終了し、投票数で1万票、得票率で 0.8% の差で否決された。大阪住民投票 反対多数 都構想実現せず – NHKニュース によれば、反対は70万5585票、賛成は69万4844票であったという。

今回の大阪都構想そのもの及びその投票に関しては、個人的には疑問に思う点が多々あったため、私も大阪市民であったら反対票を投じていたこととは思う。例えば、「大阪都構想の危険性」に関する学者所見では、以下の様な論点が提出されている。

  • (a) 特別区制は憲法上の地方公共団体ではなく不安定
  • (b) 東京都の繁栄は特別区制によるものではなく大企業の本社機能の集中に寄るもの
  • (c) 特別区制は府への中央集権を促進させ都市計画を難しくする
  • (d) そもそも二重行政は大きなムダを産んでいない;効果はせいぜい2−3億円と予測される

これらのような論点に対して、維新側、あるいは大阪都構想推進側が十分に答えることができていたとはあまり思わない。なにか的確な議論がなされている記事などがあれば、教えていただきたいところだ。

しかし一方で、大阪都構想は潰えた、よかったよかった、という気分ではない。商業の都としてかつて栄えたオオサカが徐々に衰退に向かっていることは間違いない。維新のような運動が出てきたのはそれなりの理由があるのだ。それらの問題に対してどのように答えていくか、という課題はいまだに残ったままである。

本来ならば大阪都構想に類した地方行政改革案というものはリベラルから出てこなければならないはずである。どのように大阪をもう一度力強い地域にしていくのか、ということを考える作業を続けなければならない。

ちなみに、私が大阪市長あるいは府知事だったら、大阪府を解体し、河内国・和泉国・摂津国の三国に分割する、「三国分割案」を提出するであろう。

結婚と個人の幸福とは関係がない

わたしも、日々Facebookなどで結婚の報告が見られる歳になり、巷の恋愛/結婚に関する意見なども読むようになった。婚姻をめぐる言説は非常に興味深いが、単に読むだけでなく、個人的意見を挟み、言説空間へと参画していくことも重要かと思われるので、書く。

しばしば見られる誤解だが、結婚と個人の幸福は関係がない。

社会制度としての婚姻は親族の、ひいては社会の再生産のためにあるのであって、個人を幸福にするためにあるのではない。多くの人間社会においては、結婚するか否かということのみならず、誰と結婚するか、ということまで、個人の意志とは関係なく決定される。結婚、および再生産は義務であって、そこから逃れることはできないし、その相手も自由に決めることはできない。重要なのはその親族共同体に属する子供が生まれることであって、夫婦が幸せか否かというのは二次的な問題である。特定の相手との結婚が構造的に奨励される場合でなくても、特定の相手との結婚の禁止─いわゆるインセスト・タブー─は存在することがほとんどである。

個人的自由の尊重は近代の画期的な発明であって、個人的幸福及び自由への権利、という発想が導入されることによってはじめて、不幸な結婚を回避することができ、構造的に決定される結婚相手から逃れることができる。

「運命の相手と結婚する事こそが幸福である」という信条は、このような時代にあって、再生産への親族的要請と、個人的幸福の希求の「イイトコどり」をすることができる、みごとな折衷案である。婚姻相手は自由に決定することができるが、結婚はしなければならない、というわけだ。少なくとも日本における近代的結婚は、このようなものとしてイメージされてきた。

けれどもこのような信条はより個人主義が優勢になるにともなって支持することがますます難しくなってきている。当然ながら、婚姻自体を幸福としない人間もまた存在するからである。義務としての婚姻、という論点を出さずに、個人的幸福の最終形としての婚姻、という議論だけを維持することはできない。

一方で、人間のクローン技術が完全でなく、また人間を成年にまで育てるには少なく見積もっても16年ほどかかる以上、社会の再生産は親族単位で行われなければならない。成長する過程でひとりひとりに手厚いケアを与える制度を親族なしに整えることは非常に難しい。もちろん、たとえばSF漫画「地球へ…」で描かれたような体制を実現することは、将来的には可能になるかもしれない。しかし、我々人類にはさしあたって婚姻が必要なのだ。

問題は、個人的自由と、再生産の必要性とをいかにしてバランスさせるか、ということである。「結婚こそが個人的幸福である」という信条はその一つの解であったけれども、それが唯一の解であるわけではない。他の解を導くことは、政治哲学者だけでなく、我々一人一人がなさなければならないことであろう。

Charlie Hebdo: 理性の宗教か、ムハンマドの宗教か

イスラームと表現の自由の対立は既に21世紀の政治における古典的問題になった感があり、この度改めて論じるべき新しい論点は既にないかもしれない。

多くの識者が指摘されている通り、ここに論理的な解決を望むのは間違っている。ふたつの相容れない価値観はお互いどうしても譲れない一点で争っており、議論を整理することは対立を明確化し先鋭化することである。西洋としては宗教への批判及び風刺は表現の自由によって守られるべきものである─それによって欧州は近代を築き上げたのだ。しかしイスラームとしては当然ながらその信仰の絶対的基礎たるムハンマドを描くことは万死に値する涜神行為である。これは宗教的対立なのだ─フランス共和国における理性への信仰をひとつの宗教とみなすならば。

その際、どちらの陣営にも属していない吾々日本人のような半端者にできることがあるとすれば、それは、どちらかの側に立って他方を糾弾することではなく、あるいは議論を整理しどちらが正しいか見極めようとすることでもなく、どちらの議論にもそれなりの理ありとしつつ、お互いが平和的に併存するしかた─「共存共栄」は不可能であるとしても、お互いに攻撃しあうことなく存在し続けられる落としどころ─を見つけようとすることかと思う。

吾々に言えるのは、それくらいのことだ。

いずれにせよ亡くなられた人々および遺族の苦しみを思うと心が痛みます。謹んで哀悼の意を表します。

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BBC: 何故日本は児童ポルノ漫画を規制しないのか

これは、BBC – Why hasn’t Japan banned child-porn comics? の全訳である。正確性は保証しない。


日本の「マンガ」や「アニメ」は巨大な文化産業であり、世界中で有名になっている。しかし、その中には、児童を含む卑猥な表現をするものがある。何故日本はこのような表現を禁止しないのか?

日曜日の東京。同人誌即売会、サンシャインクリエイションには、幾千のマンガファン─ほぼ全員男─が集まり、ところ狭しと並ぶ机の上に置かれた同人誌をチェックしている。

妖精のような顔と大きな目をしたマンガの女性たち。多くはほぼ服を着ておらず、現実的にはありえないプロポーションをしている。洞窟のようなこの空間を、彼女たちが彩っている。

「このエリアは18禁です」とイベント主催者のヒデ氏は語る。

あるテーブル置かれている同人誌の表紙には、トップレスの少女が二人描かれている。わたしの目には、彼女たちは10歳〜15歳であるように見える。彼女たちは物語の中で、性的な行為を行っている。

他のテーブルも同じようなものである。英国やオーストラリア、あるいはカナダでは、確実に論争的、あるいは違法とみなされるであろうものが、ここでは問題なく売られている。

「児童虐待はよくない、それは常識です」とヒデ氏は言う。「しかし、その感情を持つこと、児童との性的な関係を夢想し楽しむこと自体は違法ではありません」。

彼の率直さはわたしを驚かせる。彼は「ロリコン」なる言葉─「ロリータ・コンプレックス」の略である─を導入する。これは、少女たちが卑猥な表現に巻き込まれるマンガの総称である。近親相姦、レイプ、その他のタビューを含むこともあるが、ヒデ氏はどちらかといえばハイスクール・ロマンスが好みだという。

「少女を含む性的創作物は好きです。ロリコンはわたしの趣味の一つです」、と彼は言う。

わたしは隣にいた彼の妻が、その「趣味」についてどう考えているのかを聞いた。

「問題無いと思っているでしょう」、と彼は言う。「彼女も少年たちのセックスが大好きですから」。

このような創作物は、一年に 3.6 億ドル(4.3 兆円)を生み出す日本の巨大なマンガ産業のちいさな一部分にすぎないが、多くの注目と論争の的になっている。

2014年6月、実際の児童に対する性的虐待を写した(訳者注: いわゆる「三次元」の)画像の所持を禁止する法律が日本では可決された。このような画像の生産及び牌譜は既に1999年に違法化されていたが、日本は OECD 加盟国の中では一番遅く、所持の禁止に踏み出すことになった。

同時に、マンガやアニメ、ゲームにおける、18歳以下に見えるキャラクターを含む「バーチャルな」性的画像を違法化することも検討された。しかし数多くの論争の後、日本の議会はこれを放棄。その決定は、(特に、海外の)児童保護団体やNGOから多くの批判を浴びることになった。

理解のための一つの鍵は、ヒデ氏は、我々が出会ってすぐに、彼の「趣味」を語ることになんの抵抗も持っていなかったということである。少女を含むマンガはある程度の社会的なスティグマを伴うようだが、未成年を含む性的な創作物はかなりメインストリームであるといえる。

日本の立法者は、おそらく、数多くのマンガファン─数百万にもなるかもしれない─の行為を違法化することにためらいを覚えたのではないか。

ヒデ氏のようなファンは、彼らは単に何ら危害を加えないファンタジーを楽しんでいるだけだという。児童モデルや女優は一切関わっていないから、「このようなマンガを創ることによって児童虐待は行われていない」のだ。

しかし、ファンタジーと現実との境界は常にそのように明確だと、どうして言えよう?

東京の秋葉原地区はマンガ世界の精神的な中心である。そこではネオンサインとポップ・ミュージックが眼と耳を圧倒させる。街には複数階を使った本屋が溢れ、ここならば、どんなトピックに関するマンガも見つけることができる。

その18禁部分では、「ジュニア・レイプ」や「ジャパニーズ・プリティーン・スイート」(役者注: あえて訳していない)といったタイトルのマンガを見つけ出すのは難しくない。

「何かに性的に興奮しても、すぐに慣れてしまいます」とアダルトショップで働くトモ氏は言う。「だから彼らは、常になにか新しいものを探しています。そこで、若い、未成年の女性に興奮するのです」。

批判者たちを憂慮させるのはこの点においてである。このようなマンガを創る中で仮に誰も傷つけられていなかったとしても、それは性的虐待を規範化し、促進させ、リスクを増大させるのではないか。

これが本当であるかは誰にもわからない─研究は未だ明確な結論を出していないのだ。しかし日本人の、特に女性たちは、このような自体を憂慮している。彼女たちは、このような画像を、しばしば女性の地位を貶めるようなエクストリームなポルノグラフィや、若い人々の性愛化に注意の目を向けない社会の一部であると考えているのである。

日本において若さへの強い興味を発見することは簡単だ。少女たちによって構成されたポップ・グループが成年男子の群衆に向けて演戯を行っている。ビルボードから広告、マンガに至るまで、女子高生のイメージはいたるところにある。

若い女性に向けた本を幾冊も書き著名になったリリー氏は、高校時代、男性が近寄ってきて、靴下やパンティーを購入すると言い出した時のことをわたしに語ってくれた。

「最低だと思います。変態です」、と彼女は言う。未成年とのセックスは、「強い、独立した女性に疲れた男性たちが実現したい権力の問題である」、と彼女は言う。

リリーの親の世代に有力だった家族のモデル─金を稼ぐ父と、家事をする母─は、未だに日本で強い力を持っている。しかし、日本の経済が弱体化するとともに、これを男性が実現することは難しくなった。

「彼らはビジネスでうまくいっていないので、ロリコンマンガの空想に走るのかもしれません。」

「わたしはそれを憎んでいます。本当に。日本から変態さを無くしたい─少なくともこどもたちをそこに含めないで欲しい。」

しかし、特に性的なファンタジーに関して、何が「よい」のか、何が「適切」かについての見解を政府が提供し、強制することの是非を問う人間もいる。

「批判すること自体はかまいません」とマンガ翻訳者であり、自由な言論の支持者であるダン・カネミツ氏(訳者注: 兼光ダニエル真氏)は言う。「しかし、ある人がどのように行為し、何を考えているかに基いてその人を取り締まる権力を政府に与えてしまうと、思想警察になってしまいます」。

では、彼は、少女たちや、レイプや近親相姦といったタブーを描く漫画家たちの権利のために立ち上がるのであろうか?

「わたしはそれらを好みませんが、他の人がどのように考え、何を共有した以下について、どうこう言う権利はわたしにはありません」、と彼は言う。「他の人の人権を傷つけないのであれば、一体何が悪いといえるのでしょうか?」

秋葉原のマンガショップの中で、児童保護団体のカズナ・カナジリ氏は、マンガやアニメよりも大きな問題であると彼女が考えているものを見せてくれた。メインストリートから外れ、階段をのぼると、DVD ばかりが置かれた部屋がある。

カズナ氏はそのうちの一つを棚から取り、見せてくれた。そのカバーには、露出度の高い水着を着て、大人のように性的なポーズを取る少女(5歳だという)の写真がある。他の DVD も、すべて、実際の子供が登場する。

「子供たちがかわいそう」、とカナジリ氏はいう。

「ジュニア・アイドル」ものと呼ばれるこれらの DVD は、1999年に児童ポルノが違法化されて以降人気を博した。子供の性器が隠されている限り、違法ではない、という解釈だったが、カナジリ氏は、去年の6月に法が強化されて以降はこれらも違法になったという。

「こういったものを作っている人は、適切な処罰を受けるべきです」、と彼女は言う。「こういったものは全く違法ですが、警察はまだ取り締まっていません」。

マンガやアニメにおける児童に対する性的表現はショッキングであり、注意を向けやすいが、カナジリ氏ら活動家は、今のところ、実際の児童を保護する、より重要な闘争に集中している、という。

しかし、こういった論争的なマンガやアニメ表現の禁止を全く諦めたわけではない。

「全て消えて欲しいのです」、と彼女は言う。「2020年には、日本にオリンピックが来ます。その時までには、日本が変態の国と呼ばれることのないようにしたいのです」。

マンガの支持者たちは強く拒否する説明であるが、オリンピックが近づくに連れ、海外の目が日本に向けられる。そうなれば、マンガやアニメを「ウィアード・ジャパン」ではなく、「クール・ジャパン」の一部にするための圧力はより強くなるであろう。

「どうして解散するんですか」に関して

どうして解散するんですか?」なるサイトを、ある慶応義塾大学生が、小学生を騙って作り上げた、として炎上中である。

批判されるべき点は幾多もあろうけれども、何よりも批判されるべきは、問題提起をするのならば、何故質問をするにとどまったのか、という点にあろうと思う。曲がりなりにも大学生であるのならば、自分が問題提起を行う事象について、それが何故問題なのかを説明し、かつ、それを解決するためのアクション・プランを提示するべきである。すなわち、この解散が問題的であると思うのならば、単純に「どうして解散するんですか」と問うにとどまり、答えを見つける責任を読者に押し付けるのではなく、自ら、「なぜこの解散が問題的であるのか」を論理的に説明し、それに対してどのようなアクションを取ることができるかを明示するべきである。それを行わないうちは、まさしく小学生同然であって、政治は小学生が行うものではない。

800億円という数字が紙面を踊っているけれども、選挙に伴って発生する様々なコスト─そこには単純に経済的なものだけではなく、選挙中の意思決定の遅れなども含まれる─は、そもそも代表制民主主義に不可避のものであって、単純に金額の大きさに触れるだけではこの選挙の問題性を指摘したことにはならない

仮に、この解散は不当である─すなわち、法的に適正なプロセスを経て成立したものではない─という議論を組み立てるのであれば、まず、「そもそも内閣に衆議院の解散権は存する(べき)か」、そして「もしそうだとすれば、どのような場合において内閣は衆議院を解散することができる(べき)か」を論じ、この解散がそれに当たらないことを示した上で、最終的に、「どうすればその不当性を糾弾することができるか」─たとえば、署名─をサイト閲覧者に示すべきだった。そこまでやらずに、「ねえ、どうして解散するの?」と聞くだけなら、まったく、小学生でもできる。

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