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議論の作法

インターネット上で記事を読んでいたり、あるいは仕事の場でディスカッションをしていると、議論を行う際、きちんと手続きを踏んでいないために、そもそも議論として成立しない、ということがしばしばあるように見受けられる。よって、自らに対する覚書の意味も含めて、議論を建設的に行うための作法を書き残しておく。

1. 何について議論しているのかを明確にする

建設的な議論を行うためには、概念の明確化が必要である。しばしば起こるのは、何について議論しているのかを明確に共有していないがために、ある人はりんごについて話していると思っていたところ、別の人はフルーツ一般について話していると思っており、またある人は特定のりんごの品種について話していると思っている、といったような食い違いが発生しうる。これはまだ概念の粒度の差異であるからまだ良いが、場合によってはひどい勘違いの末、ある人がりんごについて話していると思っている時に、別の人は赤い風船について話していると思っている、ということすらありうる。

2. 何を目的として議論をしているのかを明確にする

目的なき議論は不毛である。もちろん、そういった議論のための議論を行うことが楽しい場合もある。しかしその場合は、「不毛な議論をして楽しむ」ことがこの議論の目的である、ということが共有されていなければならない。通常であれば、例えばあるアクションを取るか否かということ(このプロダクトをローンチするかどうか、どの政党に投票するべきか、どこに旅行に行くべきか…つまり選択肢乙と選択肢甲のどちらを選ぶべきか)を決定するということが議論の目的となるだろう。

3. ある立場がどのような視点を持っているかを明確にする

ある視点からは選択肢乙を選ぶべきという結論が出てくる一方で、ある視点からは選択肢甲を選ぶべきという結論が出てくるということは十分にありうることである。例えばコストパフォーマンスのよいリラックスできる旅行をしたいから近場の温泉に行こう、という選択がありうる一方で、贅沢に羽目をはずす旅行がしたいから海外のカジノに行こう、という選択もありうる。ここで重要なのは、どのような視点で、どのような選好に基づいてある選択肢がよいと言っているのか、を明確にすることである。そうすると結局、どちらの視点がより重要なのか、すなわち、コスパと贅沢さのどちらがより優先されるべきなのか、という議論である、ということに気づくことができる。

4. 結語

世界は複雑である。又人間社会は更に複雑怪奇である。吾々はそれを認識し、常に結果的に最善となりうる選択を取ることが実質的に不可能であることを認めた上で、なお、結果的に最善となりうる選択を取る確率をできるだけ上げるためにどのような手段を尽くすべきか、ということを考えなくてはならない。議論はそのために非常に重要なツールである。きちんとした手続きを踏んだ上で建設的な議論を行うことによって、少しでも世界をよりよい場所にすることができるだろう。健闘を祈る。

ベネディクト・アンダーソンが死んだ

人類学者、ベネディクト・アンダーソンが死んだ。インドネシア滞在中、ホテルでの死だったという。79歳だった。

アンダーソンとその著作『想像の共同体』については、このブログでも幾度か書いた。わたしの学術的生において、彼の著作は常にインスピレーションの源であった。ひとつは、しばしば見られる誤解についての記事。すなわち、アンダーソンはネーションの「想像のされ方」によってその特異性を描き出そうとしたが、「想像されたものだからフィクションにすぎない」という主張として通俗的に理解されてしまう場合がある。また、彼は必ずしもナショナリズムに対して必ずしも否定的なポジションを取っているわけではなかったが、そのようなものとして利用されてしまった。

吾々は単にナショナリズムを蒙昧として無視することなどできない。単にその虚構性を指摘するだけではそれが現に持っている現実的な諸力を無効化することにはならない。ネーションは近代国家を支える四本の足なのであり、それが提供する神話によって人々は団結されている─物語以外を通じて人々が団結することはできないのだ。

だから吾々は、日本についての語りをはじめなければならない─この点は、「日本について」という記事でも一度書いた。パルタ・チャタジーがインドで取った戦略を適用することはこの島国においては不可能だが、某かのオルタナティブな戦略を考えださなければならない。

ただ、現在は、冥福を祈るのみである。

民主主義的プロセスについて

安保法案をめぐる与党の動きに関して、民主主義とはなんぞや、という問が散見されるので、覚書を残しておく。

民主主義は、それ自身が運動でありプロセスであるということにおいて他の政治形態とは異なる。それはいわば「過程の哲学」の上に成立しているのである。

例えば多数決について、仮に数が多ければ多いほどよいという考え方のみに立てば、全員一致が一番よいということになる─伝統的な閉じた共同体というものは基本的には全員一致をよしとするものである。その中においてはひとつの価値のみが共有されており、それを共有しないものは村八分にされることによって全員一致が保たれることになる。

しかしながら、近代的な民主主義における多数決はこれとは異なる。そこでは、異なった意見が存在することが積極的価値として見出されているのである。様々な意見が存在することが当たり前であって、それがないことはかえっておかしいという考え方に立てば、全員一致はむしろ異常事態である。ここで初めて、少数意見に対する寛容の精神が重要視されるようになる。

民主主義的な多数決においては、多数と少数との議論によるプロセスそのものが重要なのであって、単に投票の結果だけが重要なのではない。この点こそが、伝統的な共同体における全員一致と、近代的な民主主義というものを分かっている。政治は単に「勝ち負け」によってのみ成立するものではないのである。

ある自民党の政治家は、「選挙に勝った以上、国民は政治というものを政治家に任せていただきたい。野党と話し合いということは基本的にしない。選挙に勝って国民の審判が下ったのだから、政治に関しては与党の思うとおりに動かしていく」という旨の主張をした。これは「勝ち負け」で政治を判断してしまう悪しき例である。政治は、残念ながら、スポーツではない。

悪法が通った、盛んに反対したけれども結局通ってしまった、通ってしまったら終わりである、という考え方は、多くの人間によって共有されているように見られるが、これも勝ち負けで政治を判断しており、誤りであると言わざるをえない。悪法が通ったのならば、それが少しでも悪く適用されないように、尚努力をする、終局的には撤廃されるように努力をする、ということをしなくてはならない。しばしば、いわゆる「文化人」などは、いくら反対しても通ってしまうのだから、反対しても意味は無い、といったことをいう。けれども、ある方が望ましくないというとき、その反対する力が強ければ強いほど、そのほうが成立する過程において抵抗が強ければ強いほど、できた方の運用をする当局者は慎重にならざるを得ない。たとえば秘密保護法などはあまりよい法律ではない、とわたしは思う。この法制についても、ワーワー反対して騒いだけれども現実にはあまり適用されていないではないか、という人がいる。けれども実際は、あれだけ反対があったからこそ、うっかり適用できない、というほうが現実に近いであろう。投票の結果において通るか通らないかということは、政治過程における一つのファクターであるけれども、すべてのファクターではない。負けちゃったじゃないか、いくらやってもだめじゃないか、という発想には、反省されるべき勝負思想というものが非常に大きく働いているのである。

さて、碩学な読者は既にお気付きの通り、上の文章は丸山眞男「政治的判断」のほぼ丸写しである─杉田敦による『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)、385から388頁による。文中に出てくる「破防法」は「秘密保護法」に変更してみた。これは1958年の講演をベースにしたものだが、状況があまりに変わっていないので驚かされる。すべての読者に一読をおすすめする。

観るという関係

どのような関係であっても、関係性を結ぶということはお互いに自らを変質させるということである。社会的存在としての人間は他者との関係性から独立しては存在できない、というよりもむしろ、そのような関係性の総体そのものとして存在している。

それは「観測」という関係においても同様である。人間の行動や社会を対象とする学問の難しいところはまさにこの点にある。フィールドワークを通じて研究主体および対象は不可避的に変容を迫られる。フィールドワークほど直接的ではなかったとしても、「観測する側」・「される側」という関係性のモードに入った瞬間、研究対象の行動は変容するのである(パノプティコンを思い出せ)。

人類学はフィールドワークをその主たる研究手法として採用したことによってこのアポリアを最も苛烈に経験した学問であるといえるだろう。逆に、それ意外の学問では、このアポリアが十分に反省されないまま実験と観測を繰り返してきた点が否めないフィールドもある。

観るということはソクラテスの昔から理論構築の最も基礎的な段階であるけれども、その行為そのものがしばしば権力性を帯び、非対称の関係性を作り出し、結果として観られたものを変質させるということを、人間行動および社会の理解に従事するものは心に刻んでおきべきだろう。

「日本を取り戻す」

安倍自民党は前回の総選挙に際して「日本を取り戻す」なるスローガンを編み出し、「誰からどのようにして取り戻すというのか」という批判を買ったが、誰よりもこのスローガンを叫ぶべきは、右翼の側ではなく左翼の側であると感じる。

今日、「日本」を主題とする物語は右翼の側によって専有されすぎている。この点については以前も長い文章を書いた。ネーションを主体とする物語を解体し超越せんとする試みは最終的には失敗に終わったように思う。我々は今でも国民国家を生きており、ネーションに関わる物語を何らかの形で語らねばならない。問題は、その際に有効な言説が左翼の側に非常に乏しいということである。

これは「敗戦後論」に関わる加藤典洋と高橋哲哉の論争に、そして究極的には、戦死者たちをどう弔うかという問題へと関わっている。亡霊たちの供養が終わるまで、戦は終わらないのだ。

科学とは、科学教育とはなにか

ちきりん氏の科学教育論が炎上している。彼女は、下から7割の人のための理科&算数教育 – Chikirinの日記 の中で以下のように書いた。

数学や理科に関しては、全体の3割程度の生徒が学べばよい(ちきりんを含め、下から7割の人は学ぶ必要がない)と思ってます。

全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー…だ

これに対して、ちきりん氏のお粗末な科学教育論 – バッタもん日記 で以下のような反論があった。

子供の適性など誰にもわかりません。「どうせ理解できないから理科教育は必要最低限でいい」などと称して子供の可能性を狭めることはあってはならないことです。

「科学」や「科学的思考法」は様々な定義が考えられると思いますが、「なぜ」「どのように」を考えることが候補として挙げられると思います。…「インターネットで検索すればすぐわかるから学校で教える必要はない」とは、あまりに浅薄な言い草です。この理屈に従うと、学校で教えるべきことは何もありません。

この議論に関して、どのように考えるべきか。

科学と科学教育

まず、id:locust0138 氏が書いているように、以下のことが理解されるべきである。

  • 科学とは単に「既に発見された真理の集積」ではない
  • 科学教育とは単に「既に発見された真理の集積を教え、覚えさせること」ではない

では、それは一体何なのか。少し考えてみよう。

科学とはなにか

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」で一般にも知られる物理学者リチャード・P・ファインマンは、あるインタビューの中で、社会科学は「疑似科学だ」と語っている。それは、社会科学が未だに何らかの「法則」を導き出すことに失敗しているからである。将来的には、彼らはそれを発見することができるのかもしれない─とファインマンはいう─が、少なくともインタビューが行われた時点においては、それは科学の「形式」を模倣してはいるが、未だに科学的な厳密性を獲得することができていない。

これは正しいと思う。わたしの浅薄な理解では、科学とは、「データによって裏打ちされた仮説の体系」である。 ((この定義では、しかし、数学は科学ではなくなるような気がする。内的な論理だけで足りるもんな。あとコンピュータ科学は科学なのか、とか。工学ってそもそも、とか… まあ、それは別によいのではないか。科学以外にも真理に到達する方法はある。))

科学の持つテーゼは単に仮説にすぎないから、真理ではない。それらは原理的にいつでも覆される可能性を持つ。昨日行われた実験が仮説の正しさを支持しているとしても、明日行われる実験で異なるデータが出るかもしれない。ひょっとしたらそこには新たに付け加えられるべき限定が存在するのかもしれないし、単に昨日までの実験データは全くの偶然から仮説に好意的なものだったのかもしれない。

だが、過去のデータがある仮説を支持していたとして、それを支持しないデータが出てきた際には、その新しいデータが間違っているという可能性を考えるべきである。だから、新しいデータが間違っていないということを確認してから仮説の再検証に入るべきだ。

そのようにして、時として砂を噛むようなプロセスを経て、科学者は「この仮説は正しいと思われる、なぜなら」という語りを始めることができる。それはもちろん、将来的には覆るかもしれない、暫定的な、真理のようなものにすぎないわけだが。

経済学や政治科学を筆頭とする社会科学は、まだそのレベルには達していない。それが人間の行動を取り扱うという性質からして、ある仮説を検証するためのデータを生成することがまず非常に困難であるし、仮に信頼性のあるデータを得られたとしても、それが支持する仮説が、「人間社会全般」を論ずるために十分に普遍化されたものであるとは言いがたい。もちろんそれを達成するために頑張っている人々がいるわけだが、詳細には論じない多くの問題によって、それは未完のプロジェクト ((No pun intended, by the way.)) になっている。また、いわゆる人文学はそもそも科学である必要がない。計量的な形でデータを取ってくることができない、あるいは意味がないからである。

科学教育とはなにか

科学が「実験データによって裏打ちされた仮説の体系」であるとすれば、科学教育とは、「現在データによって支持されている仮説を検証する能力と、その体系に基づいて新しい仮説を立てていく能力を身につける」ことを目標とするべきである。

このような言い換えを行ってみると─実のところ、これはどのような人間にとっても必要な能力なのではあるまいか?例えば自分の会社の商品を購入しているのがどのような人間集団であるのかについての仮説とその検証は、ずいぶんこの科学教育の成果が役立ちそうである。

学びとはなにか

もうひとつ、学びに関していえば、まだ学んでいないものの価値を学ぶ前から知ることはできない、という点も指摘しておきたい。

手っ取り早く同意を得ることができそうな Steve Jobs の例を出しておこう。

彼はスタンフォード大学の 2005 年度卒業式スピーチでこう語った。

リード大学では、当時、ひょっとするとアメリカで最高のカリグラフィに関する講座を提供していた。… わたしはそこで、セリフとサンセリフの字体について、複数の字が複合する際に空白の量が異なることについて、そして何がタイポグラフィを素晴らしいものにするかについて学んだ。 …

これらのことはわたしの人生において何ら実際上の意味を持たなかったし、持つこともないであろうと思われた。しかし十年後、わたしたちが最初の Macintosh コンピュータを作っていた時、ひらめいたのだ。わたしがリード大学のカリグラフィ講座で学んだことは、すべて Mac へと注がれた。それは、美しいタイポグラフィを持つ最初のコンピュータだった。わたしがあの大学のあの講座に顔を出していなければ、Mac は複数の書体を持つこともなければ、可変幅のフォントも入っていなかっただろう。

まあ、そういうことだ。 ((眠くなってきたのでとりあえずここで筆を置いて公開してしまう。))

ちなみに id:locust0138 氏は「日本が疑似科学天国だ」という点を嘆いているが、個人的に日本は他の社会に比べてはるかにマシであると思う。アメリカの 1/3 が進化論に否定的と言うのはガチなのだぞ。 ((まあ、進化論は科学か、みたいな論争もあるけど。))

千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行ってきた

2013年10月、真夏のような暑さの土曜日。千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた。

表の石碑

表の石碑

この墓苑は国営であり、第二次大戦の海外戦没者およそ250万人の遺骨が納められている。

海外戦没者が眠っていることが記されている

海外戦没者が眠っていることが記されている

靖国神社からは歩いて数分の近さである。土曜日だったが、人はほぼいなかった。

中央献花台

中央献花台

もっと早く書くつもりだったのだが、この施設について、いかに、何を語って良いものか、いまいちわからない。気の利いたことを書こうと思いながら、記事の公開ボタンを押せずにいた。

とりあえず一旦、写真をアップするだけにしておく。第二次世界大戦の戦没者に対して、いかにして向き合うべきか、という問題には、またの機会に詳しく触れてみたいと思う。それこそが、日本の戦後社会の根幹にある問題であるように、わたしには思えるからだ。

「インディアン」という言葉に関する議論の整理

「インディアナポリス」は差別語か? という議論がはてなブックマーク上で話題になっている。山本弘氏が1940年台のアメリカを舞台にした会話文の中で「インディアン」という言葉を使ったことに対して、編集者が「先住民」への置換を要請した、という話だ。

オクラホマの田舎の農家の主人が、近くに住んでいる学者について語っている箇所だ。時代設定は1940年である。
「いや、大学で数学を教えてたとか聞いたな。今はこのあたりで、インディアンの塚を調べてる」
この「インディアン」が差別語だから「先住民」に変えてくれというのだ。

この問題に関する山本氏の議論は以下のようなものだろう。

  • 「インディアン」という言葉がある程度センシティブであることは認める。しかし、「インディアン」が差別語か否かという点については議論がある。
  • 仮に「インディアン」という言葉を利用したとしても、抗議など来る可能性は極めて低い。
  • この言葉が使われているのは会話文であるが、1940年のアメリカの田舎者が「先住民」という言葉を使うはずがない。

一方、当の編集者とみられる方から反論があった。

「リアリティ」というならば、その当時、その地域に本当にインディアンがいたのか
いたのであれば、実際にその地域に住んでいた部族の族称で書けばいいじゃないか、ということです。
「アパッチ族」とか「いあいあ族」とか…。

元原稿では地の文で「先住民」が1回、会話で「インディアン」が1回。
同じものを違った表現で書くのは混乱のもとですし、著者自身「差別語」と認識して地の文では使わないというなら
会話でも統一したらどうかとご提案しました。

編集者の議論をまとめれば、

  • 「インディアン」ということばがセンシティブであって、かつ、差別語か否かという点について議論がある点は認める。しかし、差別語であると思う人間がいるのであれば、それは使うべきではない。
  • 抗議が来る可能性が極めて低いとしても、それは 0% ではない。
  • 地の文でこの言葉を使っていないのは、著者自身に差別語という認識があるからだ。
  • 歴史のリアリティということであれば、その地域の部族の名前を使えばよい。

整理してみると、この議論は山本氏に利がある。簡単なものから順に見てみよう。

「歴史のリアリティ」とはなにか

まず、編集者の出している対案─実際の部族名を使うという点について。これは議論にならない。問題になっているのは、「1940 年、オクラホマの田舎の農家の主人が使う言葉はなにか」という点である。大学教授どうしならまだしも、このような会話で族名が出てくるのは極めて不自然である。そもそも研究対象がひとつの部族だけなのかもわからない。編集者は、「歴史のリアリティ」に関わる論点を誤解している。

「インディアン」は差別語か

編集者の文章内では、「インディアン」は差別語か否かという点についての認識がぶれてしまっている。ある言葉に関して、それが差別語であるか否かという点については、いくつかのレベルがあるだろう。

  • (a) 大多数の人にそれが差別語であるという認識が共有されている。
  • (b) それが差別語であるか否かという点について議論がある。
  • (c) 大多数の人にそれが差別語でないという認識が共有されている。

山本氏は、この言葉は上記の分類では (b) に属する、という理解で一貫している。しかし、編集者は、前半では (b) としながらも、「地の文でこの言葉を使っていないのは、著者自身に差別語という認識があるからだ」という議論によって、後半では (a) のポジションへ移動している。これは議論の運びとして誠実ではないといえる。

差別語であるか否かという点について議論があるのであれば、使うべきでないか

山本氏が地の文でこの言葉を使っていないのは、まさしくこの言葉が (b) に属すると理解されているからではないか。すなわち、「絶対に使ってはいけないものではないが、何か理由がないのであれば代替語がある」というものだ。そして、この場合、この言葉を使うための「何がしかの理由」が上記の「歴史のリアリティ」というものである。

最終的な争点は、「歴史のリアリティ」というものが、論争的な用語をあえて使う十分な理由になりえるか、というものであろう。この点についてはまだ議論の余地があるが、私は、リアリティのために必要な範囲で、但し書きをつけた上で利用する、というところが落とし所であろうと思う。

(補) 「先住民」という言葉は問題を含まないか

これに関しても議論がある。当該 Wikipedia エントリをそのまま翻訳する。

「先住民 Indigenous Peoples」という言葉の使用に対して否定的な議論としては、 (a) 17 – 18 世紀におけるヨーロッパによる植民地化によって被害を被った人々にのみ使用されるものではなく、 (b) 世界のすべての先住民グループをひとつの「他者」に一般化し、 (c) 「先住」という定義に必ずしもあてはまらない移民集団の記憶を認めることに失敗している、などがある。また、カナディアン・インディアンの一部では、フランス語である indigène という言葉が歴史的に蔑称として利用されてきたことから、この言葉は好まれない。

今日のホモ・ポリティクスや、まつたく同じくホモ・エコノミクスは、人格のいかんを問わず、怒りも興奮もなく…ただザツハリツヒな職業義務としてのみ自己の課題を果たすのであつて、具体的な人格的関わりによつてではない。そして他ならぬそのとき、彼らはその課題を、現代の権力秩序の合理的規則にそつた意味で最も理想的に遂行しているのである。 – マックス・ヴェーバー

ナショナリズム研究の未来

テッサ・モーリス=スズキが Japan Focus に寄稿した「安部ナショナリズムの再ブランド化(英語)」によれば、ケヴィン・ドークなる米ジョージタウン大学教授は安倍晋三のナショナリズムを高く評価しているという。

ドークは、ナショナリズムを「市民的 civic」な形態と「民族的 ethnic」な形態の二種類に弁別し、安倍のそれは市民的であって、弁護されるべきナショナリズムである、としているようだ。

モーリス=スズキも指摘しているように、このような二分法はすでに数多くの論者によって批判されてきた。ナショナリズムはひとつの現象として捉えられるべきものであって、それがどのような形態で発露するかは二次的な問題にすぎない。市民的に見えていたナショナリズムが、ある日突如として特定の民族への憎悪を語りだすのはそう珍しいことではない。それは表層的には異なるもののように見えるが、より深いところでは同一の機制によって働いているものなのだ、ヤヌスの二つの顔のように。

一方で、だからといって、ナショナリズムを全面的に否定する訳にはいかない。それは近代において曲がりなりにもデモクラシーというものを成立させた要因の一つなのだ。ナショナリスティックな動員というものは、軍事的に利用されたならば恐ろしい暴力を生み出すが、我々はそれなしでは市民が選挙という面倒なプロセスへとコミットすることの意味付けを満足に行えないのである。

我々の課題は二段階的である。すなわち、

  • ナショナリズムの発生し作動する内的機制を理解し、その諸形態を説明付け、
  • 適宜各国のナショナリズムを制御し、暴走を阻止すること。

これら二つの課題に向きあって初めて、ナショナリズム研究というものに意味があるということができる。

この意味で、現在のナショナリズム研究はまだ発展途上である。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエリック・ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』などは重要な著作だが、それは歴史的現象としてのナショナリズムを取り扱うことに専ら注力しており、その内的機制をきちんと問うところには至っていないとわたしは考えている。アーネスト・ゲルナーの理論については、ここのところ、再検討の余地があるのではないかという気もしているが、まだそこまでしっかりと読み込むには至っていないのが現状だ。

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