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メディアクリエイターとかどうでもいいから学生は本を読め

わたしは学生でもおっさんでもブロガーでももちろんメディアクリエイターでもない存在であってこのブログもはてなのインフラ上には存在しないから特にこの件についてコメントする立場に本来であればないのだが、少し前まで学生であって、かつネット上で定期的に文章を書いている人間として、少し思うところがあったので書く。コンテクストは以下のリンクをたどるべし。

学生であるということは尊い。それはすなわち社会的負荷を負うことのない純粋な個人として活動や思索を行うことができるということであり、社会的関係性の網の目の中にとらわれることなく、理性の公共的な使用を積極的に行うことが認められているということである。

社会人であるということはすなわち、総体的な貸し借りの関係性の中に入っていくということである。社会人になるということはそのまま誰かに借りを作るということであって、まずはそれによって発生する利子を返しながら、余裕ができたら人に貸しを作るということでもある。一度借りを作った相手に対しては、厳密に言えば、完全にその借りをなかったことにするということはできない。それが人間社会における関係性というものである。社会的自己とは自己が形成した関係性の総体である。そこでは理性の私的な使用しか認められないだろう。

だから学生の間に何かを書くということ、あるいは自己の思考を言語化する修練を積むということ、あるいは理性の使用を訓練するということは重要なことである。ネット上で何かを書くということに対しては様々なインセンティブがあり得る─金銭的なもののために書くひとがいれば、自己を救うために書くひともいるだろう。始める際の目的はどのようなものであっても良いと思う。それを行っている人間をブロガーと呼ぼうがメディアクリエイターと呼ぼうが構わない。ただ、自己の思考に対して、自分が書いた言葉に対して責任をもつこと、それを批判的に捉える視点を常に意識することができていればよい。

そしてより重要な事は、インプットを行う時間をきちんと取る、ということだ。自ら良質なアウトプットを行うためには、良質なインプットを行う必要がある。自己の思想のフレームワークを拡張するためには、よく理解できないものでも飲み込もうとしてみなくてはならない。きちんと咀嚼しないで飲み込むと腹痛を起こすかもしれないし、あるいは今まで自分が考えていたことが誤謬だったことに気づき混乱するかもしれないが、そういった過程を経て初めて、思索というものは強度を持ちうるのだ。

だから学生は本を読め。文学でも哲学でもいい。読書はいいぞ。

タイトルは釣りだ。すまない。このエントリはだいたい30分位で書いた。

結婚と個人の幸福とは関係がない

わたしも、日々Facebookなどで結婚の報告が見られる歳になり、巷の恋愛/結婚に関する意見なども読むようになった。婚姻をめぐる言説は非常に興味深いが、単に読むだけでなく、個人的意見を挟み、言説空間へと参画していくことも重要かと思われるので、書く。

しばしば見られる誤解だが、結婚と個人の幸福は関係がない。

社会制度としての婚姻は親族の、ひいては社会の再生産のためにあるのであって、個人を幸福にするためにあるのではない。多くの人間社会においては、結婚するか否かということのみならず、誰と結婚するか、ということまで、個人の意志とは関係なく決定される。結婚、および再生産は義務であって、そこから逃れることはできないし、その相手も自由に決めることはできない。重要なのはその親族共同体に属する子供が生まれることであって、夫婦が幸せか否かというのは二次的な問題である。特定の相手との結婚が構造的に奨励される場合でなくても、特定の相手との結婚の禁止─いわゆるインセスト・タブー─は存在することがほとんどである。

個人的自由の尊重は近代の画期的な発明であって、個人的幸福及び自由への権利、という発想が導入されることによってはじめて、不幸な結婚を回避することができ、構造的に決定される結婚相手から逃れることができる。

「運命の相手と結婚する事こそが幸福である」という信条は、このような時代にあって、再生産への親族的要請と、個人的幸福の希求の「イイトコどり」をすることができる、みごとな折衷案である。婚姻相手は自由に決定することができるが、結婚はしなければならない、というわけだ。少なくとも日本における近代的結婚は、このようなものとしてイメージされてきた。

けれどもこのような信条はより個人主義が優勢になるにともなって支持することがますます難しくなってきている。当然ながら、婚姻自体を幸福としない人間もまた存在するからである。義務としての婚姻、という論点を出さずに、個人的幸福の最終形としての婚姻、という議論だけを維持することはできない。

一方で、人間のクローン技術が完全でなく、また人間を成年にまで育てるには少なく見積もっても16年ほどかかる以上、社会の再生産は親族単位で行われなければならない。成長する過程でひとりひとりに手厚いケアを与える制度を親族なしに整えることは非常に難しい。もちろん、たとえばSF漫画「地球へ…」で描かれたような体制を実現することは、将来的には可能になるかもしれない。しかし、我々人類にはさしあたって婚姻が必要なのだ。

問題は、個人的自由と、再生産の必要性とをいかにしてバランスさせるか、ということである。「結婚こそが個人的幸福である」という信条はその一つの解であったけれども、それが唯一の解であるわけではない。他の解を導くことは、政治哲学者だけでなく、我々一人一人がなさなければならないことであろう。

ディプロマシーで気にしておくべき 22 + 1 のルール

ディプロマシーは、20世紀初頭の欧州亜大陸を舞台に、7つの帝国がその覇権をめぐり争う、交渉を中核に据えた戦略級ボードゲームである。内政の様相は軍隊の生産・消滅及び移動などの命令のみで、ゲームの勝敗の殆どは外交によって成立する。ここでは、その Avalon Hill 版ディプロマシー第四版の最後のページに有る22のルールを簡単に説明する。

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Mac は死んだ. Jobs が殺したのだ.

「Mac の良さ」が話題になっている。いったい何がよいのだ、Mac 版 Office は互換性の問題ゆえ役立たずだし、ゲームをすることなど考慮されてすらいない。コマンドキーがあるならコントロールキーはいらないし、秀丸が存在しない、と一方がいえば、もう片方 から、イラストや音楽といった創造的な業務には Mac が最適だし、POSIX 互換だから UNIX に向けて作られた豊富なソフト資産が使い放題、中古で売るときも値崩れを起こしにくい、という声が聞こえる。全く君たちは 20 年前から 1 ミリも進歩していない、相変わらずの宗教戦争だ、と観測者は言う。

だが、我々超正統派からすれば、Mac は既に死んでいるのである。現在大衆が Mac だと思って使っているものは、かつて我々が愛した Macintosh ではもはやないのだ。そもそも現在、その基幹ソフトの名前は OS X であって、「Mac」などという文字列はどこにも入っていない。Mac は既に、単なるハードウェアの名前にまで堕落してしまったのだ!

しかしそれが誕生した時には、Macintosh という名前は、ハードウェアとソフトウェアのハーモニーという理想を体現する概念であったはずなのだ。わたしは初めて Macintosh に触れた時の感動を今でも覚えている。一体型の完璧なフォルム、起動画面に並ぶ数々の可愛らしいアイコン、美しいタイプフェイス…。

現在 Mac と呼ばれている電脳の中身は NeXTSTEP であり、それ以外の何者でもない。Macintosh を病弱で夭折した長男だとすれば、NeXTSTEP は幼くして里子に出された優秀で健康な次男である。長男の死とともに実家に呼び戻され、家を継ぐために名前を変えたとしても、別人であることは変えられないのだ。

Mac は死んだ。Jobs が殺したのだ。Mac は早く来すぎた。まだその時ではなかった。この恐るべき出来事は目下進行中で、Dozer どもの耳には達していないのだ。ここに隠れていれば、ゲイツに見つかることなどないはずだ。いや、そんな!あの UI は何だ!窓に!窓に!

もっと日本語は中国語から単語を輸入すべき

元来日本の知識人は西洋から横文字を輸入して漢字に直すということを明治維新以降せっせとやっていたが、ある時点から何故かカタカナのまま輸入して本意を明らかにせずに使うようになってしまった。一方中国では、カタカナという便利なものが無いためすべての概念は漢語に訳さざるをえない。日本から輸入した単語も多くあるが、最近になって出てきたものはほとんどが独自訳で、大陸中国と台湾・香港などで訳が違うものもずいぶんあるらしい。

そういった新しい単語に関して、現在日本ではカタカナを使っているが、漢字としても使えたほうが良い単語はたくさんあると思う。例えば…

全球的 (ぜんきゅうてき)

  • 意味: グローバル。
  • 文例: 「全球的視点に立って物事を考えることの必要性が叫ばれている」。
  • 応用: 「全球化」 – グローバリゼーション。「全球化全球化うるさいなぁ」。

網際網路 (もうさいもうろ)

  • 意味: インターネット。「網際」あるいは「網路」だけでも同じ意味を持つが、四文字熟語としても使える。
  • 文例: 「網際網路を駆使して調べた結果、ヤツの居所が判明した」。
  • 応用: 「網民」 – ネット民。「網民どもがまた釣りに群がってやがる」。

電脳 (でんのう)

  • 意味: コンピュータ。これは日本でも割と用例があるとは思うが、もっと主流になるべき。
  • 文例: 「新しい電脳を買ってきたら、うまく設定できない。」
  • 応用: 「電脳化」 – コンピュータライゼーション。「電脳化が進んでいる中、網路を利用した販路を開拓することが必須だと考えます」。

数拠 (すうきょ)

  • 意味: データ。
  • 文例: 「もっと多くの数拠を集めなければ、この仮説は証明できない。」
  • 応用: 「数拠分析官」 – データ・アナリスト。「当社では数拠分析官を募集しております」。

特に電脳や情報技術関連の用語はカタカナが多すぎるので、より漢字化を推し進めたい。普段はカタカナを利用していても、「ちょっとこの文章には漢語を使いたい」というときに代替となる単語があるとありがたいものだ。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q を見てきた / 感想と考察

わりとネタバレなので未見の方は注意するべし。では以下、幾ばくかの感想と考察を。

結論から言えば、良かった。ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q (以下「Q」とする) は、前作である「破」からの展開をストーリイとしてきちんと継続させたように思える。「破」からどのように物語を継続させるのか、あまり考えもなしに劇場へ赴いたが、なるほど確かに「破」の展開を考慮しつつエヴァとして成立させるためには、筋書きはこのような形式でなければならないだろう。

たしかに「Q」は一見、想定もしなかった大どんでん返しであるように見える。前作「破」のラストシーンで、かつてない勇気を出して綾波レイを救ったかに見えた碇シンジは、しかし、実のところサード・インパクトを引き起こし人類を半ば壊滅させていたことが「Q」では明かされる。それはシンジを、そして視聴者をある種の絶望に叩きこむものであったには違いない。

けれども、このような展開でなかったとしたら、どのような筋書きがありえただろうか?考えてみれば前回のラストでシンジがこれまでにない勇気を奮って「レイを救う」という決意を見せた瞬間、そこをクライマックスとしてシンジの最初の物語はすでに終わっていたのだ。主人公である彼は、旧劇場版あるいはアニメ版において、世界とのつながりを絶ち自らの殻の中だけで生きようとしていたことを思い起こそう。その状態から、自らの望みを叶えるために、運命の流れに逆らって自らを世界へと投げ出した、それがシンジにとって可能になった瞬間、少年の物語はひとつ終わっているのである。このまま何もなければ、「Q」は新しいシンジの英雄譚として現れたことだろう─しかし、それは単なる「破」の後日談にすぎない。

世界の中で何がしかの活動を起こすことは必ずしも自らの想定した帰結のみを引き起こすわけではない。むしろ活動は想定されなかった結果をこそより多く生むのである。それが強い意志において行われた活動であれば、余計にそうである。結果を予測することができないということ自体がその本性的な性質であることを、われわれはよく知っているはずだ。

「わたしは人類を破滅させるつもりなどなかった。だから、わたしにはこの惨状は関係ない」と、シンジはいう。それはある意味で正しい。彼はレイを救おうとしただけだ。けれどもそれはかつて存在した世界の終わりという想定しない結果を引き起こした。たとえ世界が破壊され、人類が壊滅したとしても、行動の動機が正しければその責任は不問に付されるべきだ─とあなたは考えるだろうか?

わたしはそうは思わない。ヱヴァに秘められた力はシンジにもすでに明らかであったはずだ。彼は力を手にし、それを使って世界を自らの望む方向へとシフトさせようとした。その結果として世界にヒビが入ったとして、それが彼の責任でないはずがないのだ。

一方で、今回のシンジは、しばしば言われるように「旧劇シンジ」へと逆戻りしたのではない。彼はたしかに自らのなした所業にうまく対応できず、阿呆のような振る舞いを見せ、「ガキシンジ」とアスカに呼ばれる─が、それは彼が前進していることを逆説的に証明しているのだ。「何かをなすことを恐れて引きこもる」人間と、「何かをなし、その結果に自らおののいている」人間が同一であるはずがない。だからわたしは、今回はじめて、シンジにエールを送りたいと思う。何かをなし、なお生きることは辛い─英雄として死すことほど楽なことはないのだ。だが、われわれはそれでもなお、生きていかざるを得ない。

耳の後ろの加齢臭

以前からおもしろく読んでいる中国嫁日記に、加齢臭の話が掲載されていた。井上氏によれば、耳の後ろをていねいに洗うことでかなりの程度加齢臭は抑えることができるという。しかし、それは何故なのか?

そもそも加齢臭というものは、加齢によって増加した皮脂中の脂肪酸が酸化・分解したことによって発生する2-ノネナールという物質が原因であるらしい。

人間の体臭には様々な成分が関わっている。ここで吾々は加齢による体臭の変化について研究した。26歳から75歳までの被験者の体臭をヘッドスペース・ガス・クロマトグラフ質量分析法によって分析した結果、脂のようなまたは草のような臭みのある2-ノネナールが40歳以上の被験者にのみ見つかることがわかった。さらに、皮表脂質の分析によって、ω-7不飽和脂肪酸および脂質過酸化物も加齢によって増加し、体臭内の2-ノネナールの量と皮表脂質中のω-7不飽和脂肪酸または脂質過酸化物の量に正の相関があることもわかった。2-ノネナールが生成されるのは、脂質過酸化物を酸化連鎖反応の開始剤として利用し、皮表脂質の主要な成分が酸化的に分解されるような減成試験によって、ω-7不飽和脂肪酸が減成された場合のみであった。これらの結果が示すことは、(a) 2-ノネナールはω-7不飽和脂肪酸の酸化的減成によって生成されること、(b) 加齢による体臭の変化に2-ノネナールが関与しているであろうこと、である。

(2-Nonenal Newly Found in Human Body Odor Tends to Increase with Aging 拙訳)

もしノネナールがω-7不飽和脂肪酸の分解によって発生するのであれば、とくに耳の後ろにω-7不飽和脂肪酸が多く含まれているということでない限り、耳の後ろを洗うことによる加齢臭の激減には繋がらないはずである。しかし現実にはこの療法の効果は高い。何故か?

考えられることはおそらく、「耳の後ろを洗うこと」が根本的な解決策なのではないということだ。重要なのは、「耳の後ろ洗うこと」なのではないか。日常生活を営む上で、耳の後ろは最も洗われない部位のひとつであるはずだ。他の主要な身体部位は、入浴の際に洗われてしまうが、耳の後ろや足の指の間といった部位は、洗われずに終わりやすい。髪を洗っていても、耳の後ろまできちんとこするという人はそういるわけではあるまい。洗われずにおくことによって最終的にそこで発生するノネナールの量が他の部位よりも多くなってしまうのだろう。

まとめる。加齢臭の対策は、耳の後ろのみ洗っていれば良いというわけではない。きちんと風呂に入り、まんべんなく体を洗うことこそが、加齢臭の根本的な対策なのだ。

しかし──人間であれば多少臭うのは当たり前、年を取ってくれば更にそうである。近代文明の中で生きる我々は、自らの排泄物をもう少し尊ぶことを学んでも良いのではないか。あまり過剰に反応されては、どうも困る。

ソーシャルゲームはプロレフィードか

時は21世紀前半。我々は情報社会に生きている、と人は言う。インターネットは吾々の生を益々簡便なものにし、さまざまな障壁を取り払う。かつてある哲学者は資本こそが最も冷徹な地ならし屋だと考えたが、いま人々の生活世界を恐ろしいスピードで水平にしていくのは吾々をつなぐネットワークとそこで伝達される情報である。そして吾々は、それがよいことであるような気さえしているのだ。

けれども前世紀のおわりに楽観的な識者たちが夢見たようにインターネットが世界を益々民主的に変貌させていくということはない。たしかにソーシャルネットワークはトリポリで革命を起こしたかも知れないが、情報が資本と同じような差異の運動のさなかにその本質をもつというのならば、その自由な流通の結果発生するのは、情報を多く持っているものと少ししか持っていないものの格差なのではないか。

近年、情報強者と情報弱者という対立軸を耳にするようになった。グローバリゼーションの波にうまく乗った情報強者はインターネットを使いこなし自在に情報を摂取し編集するが、弱者は情報の海の中に溺れいまにも窒息するおそれすらある。或いはこれは日本的ガラパゴスにおいては PC を利用する層とガラケーを利用する層の二分化としても特徴付けられるかも知れない─その場合は後者は情報の波に触れてすらいないということにもなろう。

最近流行の所謂ソーシャルゲームを遊んでいるのは後者の人々であるという。曰く、グリーや DeNA の提供するゲームは、PC を利用して(情報強者によって)作られているにもかかわらず、情報弱者によって利用されている。六本木ヒルズで作成されたソーシャルゲームは、高速道路を走り回ることを生業とするトラックの運転手の左手で遊ばれているというのだ。

それがどれだけ本当かはわたしは知らない。けれども、「大衆のための娯楽」としてのソーシャルゲームが社会の特定の層によって遊ばれている、というのは、たしかに有り得そうな話ではある。少数の強者が多数の弱者のために大量の娯楽を生成し、売りつける。それは、はて、かつて様々に到来を予言されていた社会のいち構図ではなかったか。

ジョージ・オーウェルが「1984年」で描き出した社会には、プロレフィードという言葉がある。それはこの小説の舞台であるディストピアにおいて搾取される社会的階級、「プロレ」に対して支配者たる党から提供される小説や映画、音楽などのエンタテイメント一般を指し示している。必要な情報が与えられず、何が真理であるかが日々変更され、歴史が書き替えられ続けるこの社会において、プロレたちは党のインナー・サークルによって飼い慣らされ、愛国心を注入されて満足した生活を送っている。しかしこの言葉が示すとおり、党はプロレに供給されるこれらの娯楽を、彼らに与えるための「餌」とみなしている。党のアウター・サークルがインナー・サークルの機嫌を伺い忠誠を示すペットだとすれば、プロレは純然たる家畜として認識されているのである。

動物。まさしく党の標語は(かの有名な「戦争は平和である」の他に)「プロレと動物は自由である」というものであった。ポストモダンが到来したといわれて幾何かが経過した今日において、吾々はすっかり動物として生きることに慣れてしまったのであろうか。

いや、何を言っているのだ。吾々はイングソックの支配下に生きているわけでもないし、ソーシャルゲームを生産している会社が何らかの惡しき意図を持っているわけでもない。そこにあるのは純粋な利得計算だ。遊ぶ人間がいて始めてこのビジネスは成立しうるのであって、そこには全体主義的な意図など何もない。

それでも、歴史が終わった後に民主主義と資本主義が支配するこの世において、人々が自由に興じているはずのソーシャルゲームが、かつて全体主義的社会の象徴として恐れられたプロレフィードをどこかしら思わせるということは、何とも皮肉なことではないか、と思うのは、わたしだけではあるまい。

アメリカは哀しい社会であるな、という話

ひょんなことから「ソーシャル・ネットワーク」を見た。おそらくは見ないで終わるであろう、と思っていた映画であったので、少し驚いた。公開当時から話題になっていてはいたが、様々な方の寸評を見聞きして、まあ、わたしには関係のない物語に違いない、と感じたので、時間とお金を費やしてわざわざ見る、という気分にはならなかったのである。

けれどもどういうわけか、時間もお金もそう使わずに、向こうから見てくれとやってくることになった。具体的にいえば、と書こうと思ったが、まあ具体的にいう必要はあるまい。何はともあれ、DVDが我が家に、親しい友人と共にやってきた、と思ってくだされば良い。

そういうわけで男3人、膝つき合わせて映画を見た。ソファの上で友人が姿勢を変えるさまを横目で見ながらジェシー・アイゼンバーグ演ずるマーク・ザッカーバーグの貧乏揺すりを鑑賞したのである。

ジェシーはまさしくユダヤ系アメリカ人、という外見であると思う。声の響きから立ち振る舞いまで、本当に何から何までわたしのユダヤ系アメリカ人の友人とよく似ていた。というか、友人を見ている気分になった。ユダヤ人の男とアジア人の女、という話が劇中でもあったが、彼もまた東アジアの女性を好んだ。当時のわたしには良く理解できない性癖ではあったが、あれはアメリカ社会の何らかの構造を反映していたのかも知れない、等と考えながら、アイゼンバーグのあまり動かない表情を見つめていた。そのせいで多少感情移入して楽しむことができたようにも思う。

閑話休題、映画の感想である。結論から言えば思っていたよりも良かった。何も期待していなかったから、かも知れないが、様々な点で楽しめることが多かった。たとえばアメリカで女性として生きることはどういうことか、という点も考えさせられたし(「わたしはスカーフを巻くような類の女ではない」という強烈な主張や、自らを純粋なオブジェにまで加工することの出来るある意味での極地を見せつけられた)、マーク・ザッカーバーグはやはり非常なる凡人であるな、という感想から、このような人物が突如として億万長者になるということはいかなることか、ということをしばし考えたりした。

何よりも感じたのは、タイトルの通り、合衆国とは哀しい社會であるな、ということであった。劇中に登場する様々な人間─マーク、エドュアルド、ショーン─は、みな何かしら欠けているが、何に欠けているのかもわからないほどに、その欠落性に囚われているのではないか。彼らはことあるごとにパーティーを行うが、その熱狂は何かからの逃避であるようにしかわたしには見えなかった。

うむ、なるほど西洋社会の人間は、ことあるごとに寄り集まって酒を呑み、部屋を暗くして踊り明かす、という奇妙な風習を持っている。劇中にも出てきた台詞であるが、制御を失うことを何よりの目的にしているようである – everything will be out of control, you have to come and see how it goes! – それは日常があまりにも制御されすぎているからか?制御を失うために場をあつらえるとは、果たしてどういうことであるのだろうか?

等と考えているうちに劇中の審問は終わり、ザッカーバーグが独りパソコンの画面へと向き合う孤独なラストシーンが訪れる。はて、この映画は何を描きたかったのか?「億万長者となった彼は、しかしいまでもあのボストン大学のドイツ系の娘を愛していたのでした」という悲哀の物語か?「起業には様々な物語があり、成功者の背負うものも決して煌びやかな過去だけでは無い」という若者への警鐘か?

むろん解釈はひとつではない。映画には様々な見方があってしかるべきである。けれども、少なくともわたしには、この映画が、現代のアメリカに生きることの悲哀を描き出しているようにしか見えないのである。

ボードゲームのコミュニタス: ディプロマシーについて

今度、「ディプロマシー」なるボードゲームをやる。これは「人間関係クラッシャー」として一部では有名なゲームで、ルールは簡単、要はコマとマップを使った陣取りゲームなのだが、コマは基本的にすべて同じ力で、基本的にはみな同程度の軍事力しか持っていないので、誰かに勝つためには他の誰かの協力を得る必要がある。しかし一方で、協力したふりをして裏切る方が自分にとっては有利なので、或る時は同盟を結び、或る時は裏から背中を刺す、ということをしなければならない。シンプルだが実によく考えられたゲームである。

Diplomacy map

場所は20世紀初頭の欧州。プレイヤーはイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、ロシア、オスマンの7帝国のうちどれか一つを選び、担当する。初期条件は国によって異なるが、殆どの国は陸軍2部隊と海軍1部隊を持つ(イギリスは海軍2/陸軍1、ロシアは陸軍2/海軍2で軍事力的には有利だが南北に別れてしまっている)。勝利条件は、戦略上重要となる補給都市34カ所のうち18カ所を制圧すること。一カ国がすべてを制圧するのは非常に難しく、最終的には二つの大国の間で引き分けとなることも多い。

ボードゲームのすばらしい点は、それが一度始まってしまえば、ゲーム外のことは何も関係が無くなることだ。既存の社会構造は無意味なものとなり、ゲームのルールのみがその場で重要となる。プレイヤーたちは、この社会に生きていながらも、そことは関係の無い存在となる。それは既存の社会秩序を混乱させる一つの儀式として考えることすらできるだろう。そして、そのような儀式から生まれる人間関係を、人類学者はコミュニタスと呼ぶ。

コミュニタスにおいて重要なのはメンバー間の平等性である。通常の社会においてどのような人間であったとしても、一度コミュニタスの中に入ってしまえば単なる一個の人間として生きなければならない。そこではあらゆる人間が平等であり、外部の社会秩序や身分関係を持ち込もうとする人間に対しては制裁が下される。けれどもそのような場で生成される人間関係こそが真に重要なのではないか、とわたしは考える。

ボードゲームや TRPG といった対人アナログゲームを遊ぶ際に最低限のマナーとして重要なのは、ゲーム中で起こったことをその外に持ち出さない、ということである。ディプロマシーは先ほど言ったとおり「人間関係クラッシャー」の異名をとるゲームであるが、それはゲームのルールに従っているにすぎない中で発生した裏切りを、その外で起こったことと同じように受け取ってしまうからである。あなたがどのような人間で、どれだけ社会的に尊敬されていても、ゲームのテーブルに着いた瞬間、隣の中学生と同じ、ただのプレイヤーである。あなたはあらゆる社会的文脈から外され、剥き出しの個人としてゲームを戦う。その中で様々なことが発生するだろうが、ゲームが終了するとき、あなたはまた負荷のある社会人─借りによって生成される仮面を被ったバアバサアレ─へと戻るのである。だからゲームの中で起こったことを外に持ち出さないことだ。唯一持ち出せるのは、「あのとき、あそこで共に遊んだ」という信頼関係のみである。けれども人間にとって、それ以上に重要なことがあるだろうか。

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