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考えたことについて書くということ、あるいは趣味としての思考

わたしはこどもの頃から何かについて考えるということが好きで、趣味は何かと聞かれると、「思考」と答えることがあった。それは基本的に自己満足のためのものであって、それを他人に伝えたり、議論したり、わかってもらうということは二の次であった。そもそも考えるとき、一般に通用する言語を用いないことが多かったし(「記号言語」とわたしが読んでいる、イメージに基づく思考法だった)、外に出すということにあまり大きなこだわりはなかった。勉強ができるわけでも、頭の回転が速いわけでもなく、特別頭が冴えているわけでもないが、ひとつ疑問に思ったことを自分のペースで考えていることが好きだった。精神的にも肉体的にも、にぶく、のろいこどもだったと言える。

成長して、わたし以外にも様々なことを考えているひとがいることを知り、自分で考えるだけではなくて、他の人が考えたことを学ぶことにも価値があることを知った。また同時に、何かを言語化すること、何かを人に伝え、理解してもらうことにも、大きな価値があるということを学んだ。それはとても重要な気づきだったけれど、同時に、自分が考えたことに対する自信の喪失に繋がり、他者の思考のトレースと、その理解に務める時間が多くなってしまった。

けれどもその期間も終わりつつあるように思う。わたしは改めて、自分自身の思考を、自分の言葉で─ただし、他の人にも分かる言葉で─表すときが来ているのだと思う。なぜかはよくわからない。他者の思考を理解することにも限界があること、それらを集めてコレクションするだけでは、単なる化石収集者にしかなれないこと(「生きた魚を取ってこい!」とニーチェ先生は言ったらしい)、そして何より、わたしに与えられた時間に限界があること、そういったことを身をもって悟れる年令になったのかもしれない。あるいは、何か全く別に、わたしの精神の何処かに赤く大きなスイッチというものがあって、それが何かの拍子に、誰かによって押されたのかもしれない。そのスイッチがどこにあって、それを誰が押したのかは、今はわからない。

わたしが考えていることは間違っているかもしれない。それで他人に馬鹿にされたり、恥をかいたりするかもしれない。何かを知らないことで、「こんなことを知らないなんて死んだほうがいいですよ」と言われてしまうかもしれない。それでもいい。それは他でもないわたし自身の思考であり、わたし自身の血と肉なのだから。間違っていることは考え直せばいい。知らなかったことは新たに学べばいい。正しいことを言える人、たくさん知識を持っている人、頭の回転が速い人、わたしはそういう人であったことはかつてないし、これからもなれないだろうけれども、自分が疑問に思ったことを、ただ考え続けることはできる。考え続けていれば、いつか真理に近づけるかもしれない。知らんけど。

ゆっくり考えて、少しずつ言葉にしていけばいい。わたしに残された時間は、まだあるのだ。

2017年への手紙

あなたへ

お元気ですか。ご無沙汰しています。いつかはありがとうございました。筆無精で、かつ、ついつい考え込んでしまう性格が災いし、こんなにも自分の考えをあらわすことが遅れてしまって申し訳ありません。わたしはなんとか生きています。

思えば2016年は本当にクソみたいな1年でした。わたしは離婚し、祖父は呆け、イギリスは欧州連合から離脱することを決め、アメリカではトランプが大統領になりました。米国に移住して2年としばらくが経って、わたしは今年30になります。これまで生きてきて苦しいことはいくつかありましたが、その中でも厳しく、また様様なことを考えさせられる1年であった、と思います。

もちろんいくつかのよいこともありました。思いがけない驚きがあり、新しい学びがあり、様様な出会いがありました。20代の後半はわたしにとってずいぶんと苦しい期間でしたし、数々なものに惑わされ、幾多の失敗や罪を犯しましたが、29歳になった年、今後の人生を生きていくための、いくつかの指針のようなものも見つけることが出来たと思います。

昨年は父が死んで10年になる年でした。そのことは既に以前少しだけ書きましたね。わたしの時間はいまでもあの日で止まっているようですが、それでもなお、時間の経過とともに変わるものもあり、少しばかり、自分のしあわせというものを考えることができるようになりつつあるような気がします。

あなたはいまどうしているのでしょうか。生きて、幸せにやっていくれたらよいと思います。あなたがどういう年になるのか、わたしにはまだ分かりません。ひょっとしたら状況は悪化し、さらにひどいことになるのかもしれない。けれどもわたしはあなたが健やかであることを祈っています。自分が、次の10年のために出来ることを、少しずつやっていこうと思っています。何をして、誰とともに生きていくのかということに関する答えに、少しでも近づきたいと思っています。

出来ることならわたしに勇気をください。前へ進むための、あなたのために祈るための、決断するための勇気を。

自分のことばかり書いてしまって申し訳ありません。どうかお元気で。また会う日まで。

長山燕石

親の死をどう乗り越えるか

親は死ぬ。これは親が人間である限りにおいて真実である。人の親は人であり、そして、人は必ず死ぬ。

わたしの父は10年前に死んだ。53歳だった。わたしはその時18歳の若造で、近親者の死はまだ経験したことがなく、ましてや、親が死ぬということの何たるかもわかってはいなかった。

けれどもこちらに準備ができていようといまいと、死はやってくる。ときに突然に、ときにゆっくりと。父の場合は突然だった。彼は一人でスキーに向かう祝日の早朝、居眠り運転のタンクローリーに追突されて死んだ。即死だったという。その時たまたま母も姉も家にいなかったので、警察からの電話はわたしが出て、遺体の本人確認ももわたしが行った。母はパニックになり、現実を受け止められない様子であった。「お父さんは今、どこにいるの?」と電話で聞いた彼女に対して、「霊安室にいる」と答えることは、わたしが人生で口にした中で、最も残酷な一言であったと思う。

近親者の死の受容には幾つかのステージがあると思う。死して暫くの間は、その事実が現実味を持たない。玄関のドアが開くたび、携帯の着信音が鳴るたび、あるいは夜中ふと起きて冷蔵庫に向かうたびに、父がいるのではないか、父からの連絡なのではないか、と思う。当然そんなことはないのだが、そんなことはないのだ、ということをまだどこかで納得出来ないのだ。

それが終わると悲しみが押し寄せてくる。父に関することを考えたり書いたりするだけで涙がでるような時期がある。自分の父でなくても、父子関係に関する少しでも感動的な話になるともうだめである。そういう時間が暫く続く。

けれども、その時期が終わると、乗り越えたことになるのだろうか?おそらくそうでない。愛する人の死を乗り越える事はできないのだと思う。家族は今でも悲しみを背負っているし、うまくそれについて話すこともできない。喪はある意味ではいつまでもあけないのだ。悲しみは消えないし、それを抱きつつ苦しむしかない。

我々にできることがあるとすれば、それは、忘れないこと、語り継ぐこと、そして、その人物が生きていればしたであろうことをなすこと、その程度のことだ。

もうすぐ祖父も逝く。わたしは再度、死に向き合うことを考えなくてはならない。

十年

2015年が終わる。来年は2016年になる。父が死んでからちょうど10年が経つ。

父は2006年の2月13日にタンクローリーに圧し潰されて死んだ。一人でスキーに行く最中だった。最後の言葉も、死の受容のためのプロセスもない、あっけない死だった。彼は53歳で、わたしは18歳だった。

それからというもの、ずっとメソメソして生きてきたと思う。

父の死から逃げるようにして何かに没入し、あるいは自らその代理として振る舞い、あるいはただ嘆き悲しんで喪に服した。

わたしは随分と父を愛していたのだ。

けれどもそろそろ─いいかげんに?─喪を明かす頃かもしれない、と思う。

父は死んだ。彼はもうあのスキー場から帰ってこない。わたしは生きていかなくてはならない。しばらく留守にしていたけれど、わたしは、わたしへと帰ってこなくてはならないのだ。

そのためにわたしは、自己に関する問いを立てねばならない─わたしはどういう人間なのか?何を望み、何を必要するのか?

いや、答えは既に明確であるかもしれない。わたしはより多くを理解することを望む。一つでも多くのことを、少しでも詳細に。理解可能性を開き、横糸を繋いでいく作業を。

そしてできることなら、少しでもいいから、善を為したいと思う。

米国勤務雑感

米国カリフォルニア州に移動して九ヶ月ほど経過し、色々とわかってきたこともあるので、雑感をまとめておく。

わたしは基本的には同一の会社内で、東京支社から本社へと移動した。東京支社では同僚のほとんどが日本人であり、労働現場での共通言語は日本語であった。当然ながら米国ではそのようなことはなく、ずっと英語である。そのためか多少英語が上達したと思う。以前はある話題について何を発現するか事前に脳内を整理し、処理しておかなくてはいけなかったが、現在では多少なら思考しつつ発話することが可能になった。

労働はしやすい。大変風通しのよいチームで、自宅勤務 (WFH) も必要に応じてすることができる。日本では勤務態度について厳しいコメントをされることもあったが、米国では比較的まじめに職場に来ている方であると思う。これはもちろん、企業、さらにはチームによるであろうから、一般化はできない。私の場合には、ということである。

大変興味深い住宅事情や、地形・気候などの地理学的洞察についても書きたいが、トピックをあえてひとつに絞るならば、「どのような人間として評価されるか」ということが大変に変わった、ということを特筆すべきであろう。

わたしが務めている会社では、ピア・レビューといって、共に働く同僚に「この人間はこの点がよく、改善点はこうである」、などといったフィードバックをお願いする制度がある。その際に偉えるフィードバックは、第一には自己にとっての最適化目標を提示するものなのだが、他方ではその職場環境がどのようなものであるかについての知見を提供してくれる。日本では、わたしが得られるフィードバックの大半は、「論理的なところがよい。コミュニケーションのとりかたをより改善すべき」というものであり、同じような意見を得ることをある程度期待していたのだが、米国で得られたものは全く異なるものであった─同僚の大半が、わたしを「実行力があるところがよい」と評価し、「論理的」、あるいはそれに類した評価を下した人間は一人もいなかったのである。そのような意見は、日本滞在時には見られないものであった。

特に仕事のスタイルを大幅に変えたという自覚はない。当然ながら環境に影響されて無自覚的に行動パターンは変化しうるのであるが、これはどちらかと言うと、そのチーム、職場の環境がどのようなものであるか、そこで何が望ましい、あるいは望ましくない行動として捉えられているか、という認知の構造を表しているものであるかのように思われる。

同一の会社内でオフィス間を移動するだけで大きな変化が見られるということは、多国籍企業を経営していくということの困難さを端的に表している。特にいわゆる「外資系」企業においては、本社が重要視する文化や価値観というものを、いかにして他国で醸成してくか、という大きな課題があるように思われる。当然ながら、それを諦め、現地流の経営に任せる、というやり方もひとつの解ではあるのだが、支社内で何が起こっているかがブラックボックスになってしまう危険も伴う。この辺り、経営学などの分野においては既に先行研究がありそうだ。

ひがしのみやこ

3年暮らした。

その街は大きく、数多くの人間がそこで蠢いていた。住んでいる間、幾度もその街についてまとまった文章を書こうとしたが、相変わらずミネルヴァの梟は黄昏の訪れと共にしか飛び立たない。

これほど不快な街はなかった。そこではすべての時間が積み重なることなくただ流れ行き、人間たちはお互いをモノとして扱うことで情報量の膨大さを何とかして縮減しようと努力していた。過去を知らず、未来を信じないものが、模倣された欲望を握りしめて糞尿を垂れ流す、そのような場所であった。

あの戦争に負けたことでこの列島に齎されたうち最も醜悪なものがその街を支配している。それを覆す術はわたしにはない。そこで育った生命体を救い出そうとしても、それはもうその街の外では生き続けることができなくなっているのだ。

しばらくの空しい努力ののち、わたしはゲリラ戦を諦め、都市の観測に徹することにした。その結果として判明したことは、先程述べたとおりだ。歴史のない街。出自の構造的忘却と本質の半ば恣意的な無視。現実によって提示された困難をさしあたって回避するためのほとんどアクロバティックな思考停止。模倣された欲望の絶え間ない再生産と感染。

あの街から脱出して、どこへ行くのかは知らない。ゲームマスターの用意したシナリオに何が書いてあるかは、プレイヤーには公開されていない。ただ、場面ごとに、最善と思われる選択をし続けるだけである。

Goodbye, 2013

2013 年が終わろうとしている。

今年は公私ともにいろいろあった。昨年は「定住」の年であったという反省から、今年は「移動」の年にしようという抱負を立て、実際、それはかなったように思える。行った都市を数えても、サンフランシスコ、チューリッヒ、ロンドン、上海、北京、テルアビブなどを訪問し、良い経験をした。後半はさすがに旅行疲れで体調もあまりよくなかったが、一週間単位で移動するとそんなものだろうと思う。仕事の面でも変化に富み、なかなか面白かった。

このブログも多くは更新できなかったが、上海における徒然を綴った「上海滞在記(1, 2, 3)」など、個人的には満足の行く文章が書けた。また、12 月末に書いた「米国の “Disappointed” はどれくらいの事態か」が finalvent 氏のツイートを発端として大きな関心の的になり、数日で一気に 9 万 PV ほどを達成したことは良い経験であった。この件に関しては、「戦死者を弔うとはいかなることか」などといったトピックで、社会人類学的な視点からもう少し掘り下げることができるように思う。日本における左右のジキル=ハイド的分裂を回避しつつ、なお「正義」について語るためには、迂回路を取らねばならないが、以前述べたとおりそれを文章としてうまく結晶化させることができるかは、まだわからない。

今年書きたかったけれど書ききれなかったトピックもいくつかある。「千鳥ヶ淵へ行ってきた」、「漫才におけるツッコミの意義」、「エロマンガ島の現在」など。できれば来年のうちに公開したい。

来年はさらなる「変化」、「移住」の年にしたいと思う。さよなら、そしてありがとう。

上海滞在日記 (3)

20 Jan 2013

結婚式に向かうため、6時半起床。7時に朝食。ホテルのバイキングはこれが初めてである。取り揃えは中華系、洋食系、和食系とそろっていて、なかなかよい。饅頭がうまくておかわりしてしまった。飲み物にココナツミルクがあるのもすばらしい。おかゆがあるのに後から気づいたが、時既に遅し。饅頭と春巻きで腹をいっぱいにしてしまった。紅茶もうまい。

9時15分の電車に間に合うように、7時半過ぎにはタクシーを拾って虹橋駅へと向かう。40分程度かかるのではという話だったが、20分で着いた。運ちゃん、やるね。上海の運転は皆アグレッシブで、あまりここで運転したくはないと思う。何より厄介なのは歩行者のアグレッシブさで、信号が赤でも、少しでも車が途切れたらその瞬間に皆渡ろうとする。わたしもいちいち律儀に信号を守っている訳ではないが、それにしたって程度というものがあろう…などと思ってしまって自分の日本人性を反省。

ほかの同級生と合流するまでしばらく時間があるということで、駅の中をぶらぶらした。セキュリティはまたしても非常に厳重。どこに入るにも手荷物チェックが必要だ。構内はモダンで、日本の新幹線の駅とあまり変わらない。見渡す限りアジア人。中国の子供はほほがくっきりと赤く、かわいらしい、気がする。トイレに入ったのだが、紙をおいておらず焦った。ホテルからティッシュ・ペーパーを持ってきていたのが本当に幸運だった。予約されているチケットを取得するのは中国人の友達にやってもらったのだが、なぜか受付が「一つの予約番号に対しては一つのチケットしか出せない」と主張しており、いやそんなはずはない、複数のチケットが予約されているはずだ、と言って出してもらうのに結構な時間がかかった。謎である。

目的地の常洲までは150キロほど、1時間強もあれば到着する。高速列車の中は快適で、サービスも良い。ただし、車体が微妙に右に傾いているような感覚がずっとあって、少し怖かった。後でどこの国が作っているのかを調べようと思う。

到着し、タクシーで結婚式が行われるホテルへ向かう。祝儀は3万円、人民元に換えるかどうか迷ったが、一袋くらい日本円があっても面白かろうということで、そのまま包んだ。日本的な祝儀袋は白いからだめだということで、紅い包みを購入する。実のところ、相場は800〜1000元程度らしい。まあ、よいか…数少ない友達なのだ。

中国式近代的結婚式というのは面白い。まず、二人の写真がそこら中に飾ってある。両方と知り合いなのだが、化粧とフォトショップで、本人に見えないほど加工されている。その二人が何やら雑誌の表紙でも飾りそうなファッションに身を包んで、リゾート地などでポーズを取っているのだ。ちょっとここまでやるのは日本ではないだろう。

新郎曰く「これは伝統的なものじゃなくて、あえてモダンにやっているんだ。伝統的な式は先月挙げて、今日は近代的、明日は田舎でもう一つ式を挙げた後に飲み明かす予定だよ」という。すげえな。

エンターテイナーが出てきて観客にぬいぐるみを投げまくる。これにはどのような象徴的意味があるのか。やはり出席者に対する贈与なのであろう、などと浅い思索を深める。

夜にまた別の湖南料理屋に行ったのだが、うますぎ。これが上海で最も良い経験であった。ここは通う。謝謝廣隸。

上海滞在日記 (2)

19 Jan 2013

昨夜会合したポーランド人の彼女は今ロシア系のメディア企業でグラフィックデザイナー見習いをやっているという。仮にも人類学部を出たのにお互い全く違う仕事をしているね、と苦笑い。その後、いやいやこれもエスノグラフィの一環なのだよ、という人類学者お決まりの言い訳をする。彼女はすっかり中国嫌いモードに入ってしまったようで、次に会ったときは「白酒はわたしが見た中で最も disgusting なお酒ね」と言っていた。これはさすがにわたしも「いや、僕好きだけどね、白酒」と反論してしまった。こと食い物と飲み物に関しては中国はすばらしい。その後も、バロット(毛蛋)と皮蛋の区別がついていなかったりで、本当に中国学を勉強したのか、と思ってしまう。他文化に対してまずは理解する姿勢を示すことを人類学は教えてきたと思うのだが。

朝、11時頃起床、ホテルの朝食には間に合わなかった。昨夜 Twitter で連絡が取れないので Gmail で自分の上海での電話番号を教えておいた友人から電話がかかってくる。1時に約束。倫敦時代の数少ない友人の一人だ。彼は父親は台湾系三世、母親は韓国人で国籍は台湾だが生まれと育ちは京都、大学は倫敦、東京で少し働いてからまた倫敦の大学院を出て、その後に上海の広告エージェンシーで働いているという異色の才能である。中国語はあまり話せなかったのにすっかりうまくなっていてビビった。彼の語学センスには凄まじいものがある。

新天地の小洒落たチャイニーズをつまんだ後に、タクシーで小汚い小籠包屋に行く。これがまたうまい。高い蟹肉小籠包もうまかったが、結局豚肉を使ったスタンダードなもの(15元)が一番良い気もする。いろいろと連れて行ってもらってありがたかった。圧倒的な上海のエネルギーというものを感じることができた。おばちゃんのバイクの後ろに10元払って載せてもらったりした。あれはいいものだ。もう少し空気がよかったら、また利用されてい字体が繁体字だったら、ここに住んでもよいな、と思う。簡体字はどうも美的に優れないとやはり感ずる。書きやすくはあるのだろうが。旧漢字圏は丸ごと正字に戻してしまうべきである。そうすればもっと地域内の交流が進むに違いない。

夜、JC Mandarin に集合、LSE 時代の友人と再会。湖南料理を食す。うまい。白飯が、何やらジャポニカとインディカの中間のような面白い米なのだが、ふっくらと炊いてあってとてもよい。中華料理は日本ほど米の炊き加減にこだわらないと思っていたので、これは初めての経験だった。小さな容器に入れて蒸したものをそのまま出している気がする。毛沢東が湖南省の出身であったということで、マオ元主席が好んで食したというエビ料理なんかもメニューにある、が、雲南省出身の友人が「それはおいしくない」というので頼まなかった。水煮牛肉、茄子炒め、などなど。デザートには、甘酒の中に白い団子が入ったものを食す。これもとてもうまい。

どうでもよいが「雲」の簡体字は「雨」の部分を省略したもので、何というか、ちょっと意味が分からない感じがある。

同級生の多くは一年以上会っていなかったが、皆変わっていなかった。まあ、この年になって一年やそこらで人間が変わることはもうないだろう。わたしも、自身の体感としては中学生後半位からはあまり変わっていないと思う。もちろん、久しぶりに会った友人には、多少の変化を指摘されたりはするのであるが。

上海滞在日記 (1)

これは2013年1月に上海を訪れた時につけていた日記の抜粋である。

18 Jan 2013

上海行き当日。深夜から準備を始めて、最終的に就寝したのは3時と言ったところだったろうか。旅行のための準備ほどおっくうになるものはない。

旅立ちの朝というものは、なぜこのように哀しくなるのだろう?モノレールから眺める景色は団地と会社と高層ビルの繰り返しで、まさしくうんざりするような東京なのだが、もうしばらくこの風景を見ることはできないのだと思うと、それすらもどこか美しく、哀しいもののように思えてくる(ところで─美しいものは哀しいものである、というこの感覚は、どこで培われたものなのだろうね?)。

モノレールでは二人の定年をすぎた会社員たちと同席した。彼らは自分が定年してからも同じ仕事をしていること、にもかかわらず給料が減っていることを、どこか哀しそうに、あるいはどこか楽しそうに話していた。隣に座っている女の子はただ目を瞑ってじっとしていた。

空港では土産としてハンドクリームとボールペンを購入。まあ、こんなものだろう。クレジットカード会社が提供しているラウンジを初めて利用したが、なかなかよかった。これなら空港で数時間過ごさなくてはならないときでも大丈夫そうだ。これからも積極的に利用していこうと思う。

上海へはすぐに到着した。飛行機に乗って、朝飯を食べ、一眠りしたらもうアジア大陸の上を飛んでいた。2時間半と言ったところだろうか。遠いようで近い国だ。虹橋空港に到着する際にちらりと見えた地上には、同じような建物─おそらく団地だろう─がどこまでも並んでいた。これが社会主義というものか。

旧共産圏に来るのはもちろん初めてだし、よく考えてみればアジア大陸に来るのすら初めての経験である。厳密に言えば釜山に会議で二日ばかりいたことがあるけれど、会議ばかりでほとんど観光もしなかったし、大阪から一時間しかかからない、日本の携帯の電波が入るようなところだったので、それはカウントしないことにする。

安全についてどれくらい警戒してよいかわからなかったから、さしあたって最大限に周りを警戒しつつスーツケースを運んで地下鉄に乗った。セキュリティはかなりしっかりしていて、地下鉄に乗るだけでも荷物のチェックが入る。しかし、小型爆弾を内側のポケットに忍ばせていれば、持ち込むことは不可能ではなさそうだ。もちろん、そういうことをするつもりはないけれども。

地下鉄10号線の駅はほぼ日本とかわらなかった。何方かと言えば東京の南北線に近いようなイメージだ。午後の紅茶の広告がでかでかと貼ってあり、自販機ではスプライトが売っている。なるほど、なるほど。

陝西南路 Shanxi Nan Lu 駅で下車し、エスカレーターを上って駅から出た瞬間に目に入ってきたものは、バイクが歩道を走っている風景であった。なんだかそんなにヨーロッパと変わらないなと思っていたが、確かにこの無秩序さとパワーは間違いなくアジアである。きれいなブランドショップが入ったビルの横で、そのブランドの偽造品を露店で売っているような風景。西洋的なものとアジア的なものが、融合するというよりかは、互いに異物としてただ存在しているような風景。今まで経験したことのない雰囲気である。

前日にブックしたホテル・オークラまでは徒歩10分ほど。多少迂回的なルートを通ってしまったようだが、高いタワーの一番上にホテル・オークラと書いてあるので、迷うことなく到着することができた。チェック・インは当初英語でやるつもりだったが、日本のパスポートを見せた瞬間に向こうが日本語を話してきてくれたので、スムーズに終わった。なるほど。

ちなみにホテル・オークラの中国名は花園飯店 huayuan fandian である。オークラの名は含まれていない。中国語名も日航飯店の日航ホテルと比べると、なかなか興味深い。また、ホテルは「飯店」あるいは「酒店」なのだが、レストランもまた同じ単語で示されるようだ。そこに差異が見いだされないのがまた興味深い。

ホテルの部屋には有線LANしか存在しないので、MacBook Air に接続するための USB アダプタを Apple Store まで買いにいくことにした。SIM を購入するついでに相談すると(ちなみにμSIMが欲しいのだがと言ったら「いいわよ、カッターマシンがあるから」と言ってその場で切り出してくれた。すげえな)、徒歩20分程度だと言う。それなら見学ついでに歩いていくか、と決めて、謝謝、拜拜。

さて上海の街だが、どこに行っても空気が汚い。もちろん東京も基本的には空気が悪いのだが、そういうレベルではない臭さである。東京は臭いところと臭くないところが明確にあるが、上海は基本的に、どの路地を歩いていても臭い。これは凄まじいことである。上海の人口は東京よりも少ないというのに、どうやればこれだけ広大な土地をこれだけ汚染させることができるのだろうか?(この数日前に、北京の大気汚染が危険なレベルに達したため政府が市民に出歩かないよう勧告したらしい、というニュースを聞いた。すげえな。)(ちなみに Air Pollution Index というのを見てみると、上海の汚染度合いは北京よりも上であった。おいおい。)わたしは元来喉があまりよい方ではないので、数時間で喉の異常を感じ始めている。

ラッキーなことに Apple Store ではある程度英語が通じたので、難なく買い物できたのだが、隣の GAP では何も理解してもらえなかった。レジで何か問題が発生して少し待たなければならなかったのだが、店員の小姐には目すらあわせてもらえなかった。普通話をもっと勉強しなくてはならない。

そこから人民広場まで歩いて(汚染された大気の中を。できればもう100年早くここに来たかった)、南京東路で米粉を使った麺を食す。しかし人が多いのと道が広いのととにかく空気が悪く雑多なのと…あまり快適という訳ではなかった。米粉も悪くはなかったが、歯ごたえが個人的には気に食わなかった。小麦麺の方が好みである。タクシーで帰投。

ホテルに帰ってから気づいたこと: Facebook / Twitter に接続できない。VPN にもうまくつながらずにお手上げ状態。何が共産党をここまで追い込んでいるのだろう。べつに SNS につながったから暴動が起こる訳じゃないと思うが…まあ、中東などの例もあるが、結局重要なのはどこまで人民に不満がたまっているかということなのではないか。イラン革命の経済的な下地についてのペーパーを読んだことがある。すべてを下部構造に還元するある種のマルクス主義は支持できるものではないが、しかし、それを完全に無視することは当然できない。

夜は、UVA Italian Wine Bar で LSE 時代の友人と再会する. 彼女はポーランド人で、中国研究をしてからこちらに来たのだが、何方かと言えば上海の無秩序さにうんざりしているようだ。「クリスマスは海南島に行ったのだけれど、」と彼女はぼやく、「タクシーの態度が最低!運転手が5分に一回は唾を外に吐き出してて、すごく不快な気分!空港から明らかに別のホテルに送られて、実際のホステルがどこにあるのか確認するのが本当に手間だった。もう二度と行きたくない。」彼女によれば、上海はどこもかしこもショッピングモールばかりで、文化というものが感じられないらしい。今週の頭に香港に行ってきたが、それはとてもよかった、ということ。少なくとも上海は気に入っていないようだ。なるほど、ワルシャワに育ち、倫敦で学生生活を送った身としては、そういうものなのかも知れない。まあ、アジア的混沌というものが肌に合わない人はいるのだろう。どちらかというと生理的な問題のような気がするので、早いところより欧州に帰るか、東京辺りに逃げ出すことをお勧めする。

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