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上海滞在日記 (1)

これは2013年1月に上海を訪れた時につけていた日記の抜粋である。

18 Jan 2013

上海行き当日。深夜から準備を始めて、最終的に就寝したのは3時と言ったところだったろうか。旅行のための準備ほどおっくうになるものはない。

旅立ちの朝というものは、なぜこのように哀しくなるのだろう?モノレールから眺める景色は団地と会社と高層ビルの繰り返しで、まさしくうんざりするような東京なのだが、もうしばらくこの風景を見ることはできないのだと思うと、それすらもどこか美しく、哀しいもののように思えてくる(ところで─美しいものは哀しいものである、というこの感覚は、どこで培われたものなのだろうね?)。

モノレールでは二人の定年をすぎた会社員たちと同席した。彼らは自分が定年してからも同じ仕事をしていること、にもかかわらず給料が減っていることを、どこか哀しそうに、あるいはどこか楽しそうに話していた。隣に座っている女の子はただ目を瞑ってじっとしていた。

空港では土産としてハンドクリームとボールペンを購入。まあ、こんなものだろう。クレジットカード会社が提供しているラウンジを初めて利用したが、なかなかよかった。これなら空港で数時間過ごさなくてはならないときでも大丈夫そうだ。これからも積極的に利用していこうと思う。

上海へはすぐに到着した。飛行機に乗って、朝飯を食べ、一眠りしたらもうアジア大陸の上を飛んでいた。2時間半と言ったところだろうか。遠いようで近い国だ。虹橋空港に到着する際にちらりと見えた地上には、同じような建物─おそらく団地だろう─がどこまでも並んでいた。これが社会主義というものか。

旧共産圏に来るのはもちろん初めてだし、よく考えてみればアジア大陸に来るのすら初めての経験である。厳密に言えば釜山に会議で二日ばかりいたことがあるけれど、会議ばかりでほとんど観光もしなかったし、大阪から一時間しかかからない、日本の携帯の電波が入るようなところだったので、それはカウントしないことにする。

安全についてどれくらい警戒してよいかわからなかったから、さしあたって最大限に周りを警戒しつつスーツケースを運んで地下鉄に乗った。セキュリティはかなりしっかりしていて、地下鉄に乗るだけでも荷物のチェックが入る。しかし、小型爆弾を内側のポケットに忍ばせていれば、持ち込むことは不可能ではなさそうだ。もちろん、そういうことをするつもりはないけれども。

地下鉄10号線の駅はほぼ日本とかわらなかった。何方かと言えば東京の南北線に近いようなイメージだ。午後の紅茶の広告がでかでかと貼ってあり、自販機ではスプライトが売っている。なるほど、なるほど。

陝西南路 Shanxi Nan Lu 駅で下車し、エスカレーターを上って駅から出た瞬間に目に入ってきたものは、バイクが歩道を走っている風景であった。なんだかそんなにヨーロッパと変わらないなと思っていたが、確かにこの無秩序さとパワーは間違いなくアジアである。きれいなブランドショップが入ったビルの横で、そのブランドの偽造品を露店で売っているような風景。西洋的なものとアジア的なものが、融合するというよりかは、互いに異物としてただ存在しているような風景。今まで経験したことのない雰囲気である。

前日にブックしたホテル・オークラまでは徒歩10分ほど。多少迂回的なルートを通ってしまったようだが、高いタワーの一番上にホテル・オークラと書いてあるので、迷うことなく到着することができた。チェック・インは当初英語でやるつもりだったが、日本のパスポートを見せた瞬間に向こうが日本語を話してきてくれたので、スムーズに終わった。なるほど。

ちなみにホテル・オークラの中国名は花園飯店 huayuan fandian である。オークラの名は含まれていない。中国語名も日航飯店の日航ホテルと比べると、なかなか興味深い。また、ホテルは「飯店」あるいは「酒店」なのだが、レストランもまた同じ単語で示されるようだ。そこに差異が見いだされないのがまた興味深い。

ホテルの部屋には有線LANしか存在しないので、MacBook Air に接続するための USB アダプタを Apple Store まで買いにいくことにした。SIM を購入するついでに相談すると(ちなみにμSIMが欲しいのだがと言ったら「いいわよ、カッターマシンがあるから」と言ってその場で切り出してくれた。すげえな)、徒歩20分程度だと言う。それなら見学ついでに歩いていくか、と決めて、謝謝、拜拜。

さて上海の街だが、どこに行っても空気が汚い。もちろん東京も基本的には空気が悪いのだが、そういうレベルではない臭さである。東京は臭いところと臭くないところが明確にあるが、上海は基本的に、どの路地を歩いていても臭い。これは凄まじいことである。上海の人口は東京よりも少ないというのに、どうやればこれだけ広大な土地をこれだけ汚染させることができるのだろうか?(この数日前に、北京の大気汚染が危険なレベルに達したため政府が市民に出歩かないよう勧告したらしい、というニュースを聞いた。すげえな。)(ちなみに Air Pollution Index というのを見てみると、上海の汚染度合いは北京よりも上であった。おいおい。)わたしは元来喉があまりよい方ではないので、数時間で喉の異常を感じ始めている。

ラッキーなことに Apple Store ではある程度英語が通じたので、難なく買い物できたのだが、隣の GAP では何も理解してもらえなかった。レジで何か問題が発生して少し待たなければならなかったのだが、店員の小姐には目すらあわせてもらえなかった。普通話をもっと勉強しなくてはならない。

そこから人民広場まで歩いて(汚染された大気の中を。できればもう100年早くここに来たかった)、南京東路で米粉を使った麺を食す。しかし人が多いのと道が広いのととにかく空気が悪く雑多なのと…あまり快適という訳ではなかった。米粉も悪くはなかったが、歯ごたえが個人的には気に食わなかった。小麦麺の方が好みである。タクシーで帰投。

ホテルに帰ってから気づいたこと: Facebook / Twitter に接続できない。VPN にもうまくつながらずにお手上げ状態。何が共産党をここまで追い込んでいるのだろう。べつに SNS につながったから暴動が起こる訳じゃないと思うが…まあ、中東などの例もあるが、結局重要なのはどこまで人民に不満がたまっているかということなのではないか。イラン革命の経済的な下地についてのペーパーを読んだことがある。すべてを下部構造に還元するある種のマルクス主義は支持できるものではないが、しかし、それを完全に無視することは当然できない。

夜は、UVA Italian Wine Bar で LSE 時代の友人と再会する. 彼女はポーランド人で、中国研究をしてからこちらに来たのだが、何方かと言えば上海の無秩序さにうんざりしているようだ。「クリスマスは海南島に行ったのだけれど、」と彼女はぼやく、「タクシーの態度が最低!運転手が5分に一回は唾を外に吐き出してて、すごく不快な気分!空港から明らかに別のホテルに送られて、実際のホステルがどこにあるのか確認するのが本当に手間だった。もう二度と行きたくない。」彼女によれば、上海はどこもかしこもショッピングモールばかりで、文化というものが感じられないらしい。今週の頭に香港に行ってきたが、それはとてもよかった、ということ。少なくとも上海は気に入っていないようだ。なるほど、ワルシャワに育ち、倫敦で学生生活を送った身としては、そういうものなのかも知れない。まあ、アジア的混沌というものが肌に合わない人はいるのだろう。どちらかというと生理的な問題のような気がするので、早いところより欧州に帰るか、東京辺りに逃げ出すことをお勧めする。

第三の何か

確か村上春樹だったか、小説を書く際に、本当にものを語っているのは、筆者でも読者でもなく、その間に浮かんでいるうなぎなのである、といったようなことを書いていたのは。誰かが口を開き、物語が始まるとき、それを語っているのは実のところ口を動かしている当のストーリーテラーではなく、そこにはいない第三者なのである、そうわたしはこの話を解釈している。現在私は修士論文に集中しなければならない身分ではあるが、文章をひねり出そうと思ってキイをたたいていると、まさしくこの表現は正しかったのだ、という気がしてくる。この論文は英語で書いているのであるから、筆者であるわたし、大文字の<I>が、読者であるあなたに向かって語る、という形式を必然的にとることになるが、この形式は実のところただの骸に過ぎず、本当にこの論文を書いているのはわたしではない、という気分が頭から離れないのである。

いや、むしろそう考えなければやってられないと言うべきだろうか。論文というものは非常に大きな物語の一部としてかかれるものである。すなわち主体はわたしではなく理性であり、人類学の歴史において今何が語られるべきかということこそが重要であり、論文に書かれるわたしの名前はその付属品に過ぎない。この中途半端なディシプリンが自らを近代的科学と呼び続ける限り(アメリカ大陸においては最近ではそれもまた怪しいと言うことであるが)、それは宿命であるといえよう。けれども結局のところ、実際に前線で石を積む作業を行っているのはわたしという身体である。だからわたしは、この身体性と意味性の乖離において、同時に語りの場に存在し、また存在しない。陳腐な、あるいは誤解に基づいたレトリックと嘲笑されることを恐れなければ、それをかの量子的な猫に擬えてもよいだろう。なんにせよ、この二重のありようが互いに重なり合うとき、そこにはわたしであってわたしでないもの、すなわちうなぎが観測者の目に発生するといえるのではないか。

さて、論文を提出するに当たっては、差異のみが価値となりうる。幾度となく繰り返されたアフォリズム。価値とはすなわち差異である…それを指摘する側に立つはずの人類学者もまた、その実践を通じて差異を通じた価値形成を行っている。どれだけよくできた論文であっても過去既に指摘されたことを反復しているのみであれば意味をなさない。けれども全くの異端、既存の可知可能性 intelligibility を完全に無視した作品もまた価値あるものとはいえない。重要なのは、ある程度反復であり、ある程度反発であるような、その微妙なバランスをつくこと、これである。けれどもそんなことが可能なのだろうか、海岸の砂浜の砂を、たった今収集し始めたような、修士課程の学生に?

倫敦の夏

7月。倫敦もかなり夏らしくなってきた…と書きたいところだが、今日の倫敦の気温は16度。最高気温は19度の予報で、20度を超すことはない。太陽は出ているものの、体感でもかなり涼しく、長袖長ズボンでもまったく問題がないし、汗ひとつかかない。この国にはクールビズということばはない。三つ揃いのウェストコートを脱ぐだけで十分だからだ。確かにここがスーツ発祥の地であるに違いない。やれやれ、困ったものを全世界に広めてくれたものである。

まったくこんなところに良く人間が何千年と住んできたものだ、という考えが頭をよぎるが、この気候に慣れているイギリス人からすれば、むしろ日本の夏の方が信じがたいものなのだろう。私の出身地である京都は夏は暑く冬は寒い、まったく住みにくい都市ではあるが、それでも浴衣を着て祇園祭のコンチキチンという囃子に耳を傾けながらぶらり歩く鴨川沿いには風情というものがある。噫。ここ倫敦にはそういったものは何一つない。環境によって人間性が被る影響というものは我々が思っている以上に大きいのではないかね、ワトソン君。近代資本主義は英国で誕生した社会の仕組みだというが、こんな場所のライフスタイルを熱帯夜の続くマレーシアで模倣できるはずがないだろう。全球化が聞いて呆れる。

何はともあれ、倫敦生活も終わりが見えてきた。現在は試験も一段落して、修士論文に集中すべき時期である。試験結果もひとまずは公表された。ほんらいならば LSE では11月まで試験結果は告知されないのだが、吾等が人類学部では7月半ば早々にすべてをつまびらかにしてしまうのである。他の学部も見習うべきだと思う。半年近く自分の試験結果が公表されないというのはあまりにも酷である。

結果としてはかなり良かった方であると思う。いまいち英国の基準がよくわからないのだが、修士論文で最良の成績である Distinction (優) を取れれば、全体でも Pass with Distinction の成績を貰うことができる。昨年は一人もいなかったということなので、狙っていきたいとは思っている。

卒業後の進路についても、そろそろ書いていきたいと思う。

未来を

渋谷

学者は未来を見据えない。ミネルヴァの梟は、必ずや黄昏を待って飛び立つ。認識を求めるものの視線は常に過去に注がれている。未だ来ざるものを我々が見ることはできないのだ。我々は過去を見つめながら後ろ向きに歩き続ける。

我々は天使ではないから、開いた翼を嵐にとられるわけでも、目前にただ破局のみを認めるわけでもない。できることなら後ろを向いて、はるか後方にあるはずの、未来という名の出来事をしかとこの目で見つめたい。けれども、どれだけ力を振り絞っても、人間である限り、頸をぐるりと回してしまうことなどできはしないのだ。

それでも、我々は未来へ向かって踏み出さなければならない。後ろ向きではあるけれど、できるかぎりの一歩を。

The Mahjong Society

LSE には「麻雀部 The Mahjong Society」なるものがある。

大学公認の組織である。サークル紹介のとき、ブースを見つけておったまげた。私にとって麻雀とは友人と徹夜で下らない話しをしながらだらだらやるもので、部活動をつくってまで遊ぶという発想はなかった。と言うか、日本の大学で「麻雀部をつくりたいんですが、いいですか」と学生担当に案を持っていったら、「ふざけるな」と一刀両断されてしまいそうだ。あ、でも、「咲-Saki-」っていう漫画はあったな(どうでもいいがこの後麻雀部に所属する香港人のロナルド君はこの漫画の愛読者であったことが発覚する)。

一も二もなく入部した。まさか倫敦に来て麻雀ができると思わない。また一人で論文を読みあさる日々が始まると思っていたのだ。この喜びと言ったら無い。最初の会合には思わずスキップで向かってしまった(ほんとに)。友とグロッキーになりながら朝まで牌をかき混ぜたあの自由と放埒の日々よふたたび!

もちろん事態はそう簡単には推移しなかった。麻雀部に入っていたのは大半が香港人であり、この部の主流は広東麻雀であったのだ!中国の麻雀が日本とは違うというのは聞き及んでいたが、あまりに違うので吃驚した。まず牌がでかい。実に、本当に大きいのだ。あれより大きいものはまず存在しない。具体的には日本の牌の倍ぐらいの大きさがある。いわゆるゲタ牌という奴である。ルールも随分と違うようだ。まず点棒がない。そもそも中国でも地方差があるようで、「広東麻雀」「上海麻雀」「台湾麻雀」など様々だ。ちなみに台湾麻雀の牌は日本より少し大きいくらいである。と言うわけで最初の会合、行きはスキップだったのに帰りは重い足取りになってしまったのであった。

しかし転んでもただでは起きない、をモットーにしなければ生き残っていけないような倫敦という土地。会合で「日本麻雀できるよ」と言う奴をひとりだけ見つけ、facebook を交換しておいた。それが先ほど名前の出た重度のオタク、19歳香港人、何を専攻しているかは知らないが日本麻雀から台湾麻雀、越南麻雀までたしなみ、ついでにブリッジ部(体操ではなくてカードゲームの方だ)の部長も兼ねるという無駄にスーパーな男、ロナルドである。中国名はなんなのか知らない。

かれにうまくオーガナイズしてもらって、香港人をもうひとり(名をケビンという。中国人が西洋に来て英語名を使うのを見るは面白い)、日本人をもうひとり(カツさんという30代でマネジメントを勉強しに来た数少ない自費留学生─LSE 修士課程にいる日本人は大多数が官僚なのだ)連れてきてもらい、麻雀を遊ぶ準備が整ったのである!

既に2回ほど集まって遊んだ。最初はロナルドがバカ勝ちした(ネットで手に入る情報からすべて学んだので、日本人と遊ぶのはこれが初めてだという。凄いゲームセンスだ)が、二回目はうまく立ち回ってわたしが勝った。日本人としての面子…は別にかかっていないが、ぼろ負け続きだと中学から共に麻雀を遊んできた友人たちにいじめられそうなので、思わず奮闘してしまった。特にこの話にオチがないことに今気づいたが、まあ、こういう課外活動もある、と言うことで話を締めくくっておこう。

(報告するのを忘れていたが、British Council の「オンライン広報大使」というものになった。英国の留学生生活をより多くの人々に知ってもらおう、という趣旨らしく、この記事も、その活動の一環として書き始められたものだ。途中でなんだかよくわからなくなってしまったけれど…まあこういうのもありだよ)

英語を学ぶということ

言語学者でもないのに、現在英国に留学しているということのみをもって、大上段に構えて英語論をぶつ、と言うのはあまり喜ばしくない態度であるように思われるが、勉強してもいまいち身につかない、という方々の参考に多少なりともなれば、という思いから、自分の体験に基づいたアドバイスのようなものを二、三書き連ねたい。通俗的になってしまうが、ご勘弁。

まず一つは、「きちんとした読み書き能力を身につける」ことであると思う。話したり、聞いたりすることも重要なのだが、たとえば二、三ヶ月ほど短期留学して培ったリスニングは、よほど確固たるものがなければ、すぐに耳から抜けてしまうように思われる。スピーキングも同じこと。会話は、英語の洪水の中に身を置けば生活の都合上比較的すぐに身につくが、それだけに忘れるのも早い。英語が自分の中に根を張るためには、英語的思考法を身につけねばならず、そのためには多く読み、多く書くことが一番の近道なのではないか。アカデミック・イングリッシュを読み書きする能力をいったん身につけてしまえば、それは英語力の根っこになるだろうし、根がしっかり張った植物はそう簡単には枯れないものだ。

それから、「文化を学ぶ」こと。コミュニケーションを取るためにはトピックが必要であり、そのためには共通の教養が必要だ。よく「海外に来て自分が日本を知らないことがわかった」と言う人がいるが、これは「話題として自国の話を提供する」というのが会話のテンプレートとして確立されているからだ。だから、日本文化について英語で語れるようにしておく、というのはよいアイデアかも知れない。英語は国際言語とはいっても結局のところ英米の言語であるから、これらの国で教養と見なされている西洋哲学一般(プラトンからデリダまで)の話は比較的通用することが多いだろう。特に、哲学や文学の書は質の高い英語で書かれているから、よい reading の体験にもなる。

最後に、会話の際、「主張する気概を持つ」ことだろう。英語によるコミュニケーションというものは、自分からメッセージを発しなければ、向こうから聞く姿勢を持った人間がやってくることはないと言っていい。日本語だと、自分の方に耳が向くのを待ってから話し始めるのが礼儀正しいように思われるが、英語ではそうでなく、無理矢理相手の耳をこちらに向けるくらいの意志が必要になる。疲れるが、仕方ない。

畢竟、「英語的に考えること」が英語上達のための一番の近道なのだ。英語的思考と日本語的思考というものは大いに異なるから、簡単ではないし、日本語的思考を忘れてしまっては本末転倒だが、どちらもきちんとバランスよく習得すれば、脳にとってはとてもよい栄養になると思う。小手先だけの英語でよい点数を取ることをめざすのではなく、根をできるだけおおきく広げることを考えるべきだろう。茎や根がひ弱では、咲く花も力に欠ける。

ロンドン生活が始まった

入国審査は簡単だった。財政状況を証明する書類を用意しろ、と英国大使館のウェブサイトには書いてあったが、特に提出を要求されることなく終わった。LSE の Offer Letter とパスポートを見せただけで難なくパス。朗らかさで勝負したのがよかったのだろうか。以前ケンブリッジで勉強したことがあるというのもプラスに働いたに違いない。

しかし、英国に到着してからが大変だった。安いからと言って地下鉄で行こうとしたのが間違い。ロンドンの Underground は全く完全にバリアフリーではないので、30キロほどもあるトランクを持って右往左往するはめになってしまった。おかげで背中を痛めた。本を25冊ばかり持ってきたのもよくなかった。もちろん、すべて必要な本なので、後悔はしていないが。

部屋はまあ、期待通り。シャワーの出が悪く、水の排出がうまく行っていないことを除けば、おおむね満足している。日本でいう8階(なぜか6階と表示されているが)で、最上階であるため上の階の足音などに煩わされることもない。キッチン、シャワー、トイレが完備しており、安息日には一歩も外に出なくても生活が完結する。これは引きこもり思考のある人間としてはありがたい。以前ケンブリッジにいたときは、キッチン共有でひどい目にあった。それを考えれば遥かにましである。

立地はよい。Liverpool Street Station 近くで、Spitalfields Market から徒歩30秒の場所にある。5分ほど歩けば、たいていのものが手に入る Argos なるカタログショップがある。もちろんスーパーマーケットの Tesco も近い。ぎりぎり Zone 1 圏内なので地下鉄代も安くすむ。ありがたいことだ。

無印良品にずいぶんとお世話になっている。英国中に15店舗あるらしい。日本の生活雑貨のクオリティはすばらしいので、これはかなりありがたい。これもやはり、ロンドンにしてよかったと思う。ケンブリッジではこうは行かない。

どのような情報が求められているのかよくわからないので、ざっくりとしたレポートになってしまった。Application Process などの話もした方がよいのだろうか。あまりテクニック的な話は得意ではないけれども、リクエストがあればお答えしたいと思う。

倫敦へ

ロンドン中心部にある London School of Economics and Political Science (LSE) で社会人類学 Social Anthropology を学ぶことになったのは様々な偶然が折り重なった結果だった。元々学部では政治学を専攻しており、人類学へ進もうとは(少なくとも三回生の段階では)あまり考えていなかった。自分の人類学知識自体少なかったし、政治学というディシプリンに対して疑問を感じることはあっても、そこから出ようという決断をするところまでは行かなかった。

それが変化したのは、学部中に交換留学で一年間過ごす機会があった University of Cambridge で、様々な人類学的のマテリアルに触れる機会を頂いてからだ。ここでも主に勉強したのは政治思想史(メソッドや考え方が日本とは大きく異なり、非常に刺激を受けた)及び国際政治(イラン革命など、日本ではあまり注目を浴びることのないトピックスがあって興味深かった)で、人類学はその横でしこしこと自習しているだけだったのだが(人類学の講義を聴講したりなど)、触れれば触れるほど、きちんとこのディシプリンを学んでみたいという思いは強くなった。

剣橋から帰国してしばらくは、どの大学院の、どの課程に進学するかでずいぶん悩み、紆余曲折あって LSE にどうにか合格することができた次第。それから半年間は少し趣を変えて、とある IT 系企業でマーケティングやビジネスの勉強をさせていただいた。来週、倫敦へ発つ。不安も多々あるが、楽しみだ。何より、早く読書を始めたくて仕方がない。

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