Page 3 of 9

Charlie Hebdo: 理性の宗教か、ムハンマドの宗教か

イスラームと表現の自由の対立は既に21世紀の政治における古典的問題になった感があり、この度改めて論じるべき新しい論点は既にないかもしれない。

多くの識者が指摘されている通り、ここに論理的な解決を望むのは間違っている。ふたつの相容れない価値観はお互いどうしても譲れない一点で争っており、議論を整理することは対立を明確化し先鋭化することである。西洋としては宗教への批判及び風刺は表現の自由によって守られるべきものである─それによって欧州は近代を築き上げたのだ。しかしイスラームとしては当然ながらその信仰の絶対的基礎たるムハンマドを描くことは万死に値する涜神行為である。これは宗教的対立なのだ─フランス共和国における理性への信仰をひとつの宗教とみなすならば。

その際、どちらの陣営にも属していない吾々日本人のような半端者にできることがあるとすれば、それは、どちらかの側に立って他方を糾弾することではなく、あるいは議論を整理しどちらが正しいか見極めようとすることでもなく、どちらの議論にもそれなりの理ありとしつつ、お互いが平和的に併存するしかた─「共存共栄」は不可能であるとしても、お互いに攻撃しあうことなく存在し続けられる落としどころ─を見つけようとすることかと思う。

吾々に言えるのは、それくらいのことだ。

いずれにせよ亡くなられた人々および遺族の苦しみを思うと心が痛みます。謹んで哀悼の意を表します。

閱讀列表

BBC: 何故日本は児童ポルノ漫画を規制しないのか

これは、BBC – Why hasn’t Japan banned child-porn comics? の全訳である。正確性は保証しない。


日本の「マンガ」や「アニメ」は巨大な文化産業であり、世界中で有名になっている。しかし、その中には、児童を含む卑猥な表現をするものがある。何故日本はこのような表現を禁止しないのか?

日曜日の東京。同人誌即売会、サンシャインクリエイションには、幾千のマンガファン─ほぼ全員男─が集まり、ところ狭しと並ぶ机の上に置かれた同人誌をチェックしている。

妖精のような顔と大きな目をしたマンガの女性たち。多くはほぼ服を着ておらず、現実的にはありえないプロポーションをしている。洞窟のようなこの空間を、彼女たちが彩っている。

「このエリアは18禁です」とイベント主催者のヒデ氏は語る。

あるテーブル置かれている同人誌の表紙には、トップレスの少女が二人描かれている。わたしの目には、彼女たちは10歳〜15歳であるように見える。彼女たちは物語の中で、性的な行為を行っている。

他のテーブルも同じようなものである。英国やオーストラリア、あるいはカナダでは、確実に論争的、あるいは違法とみなされるであろうものが、ここでは問題なく売られている。

「児童虐待はよくない、それは常識です」とヒデ氏は言う。「しかし、その感情を持つこと、児童との性的な関係を夢想し楽しむこと自体は違法ではありません」。

彼の率直さはわたしを驚かせる。彼は「ロリコン」なる言葉─「ロリータ・コンプレックス」の略である─を導入する。これは、少女たちが卑猥な表現に巻き込まれるマンガの総称である。近親相姦、レイプ、その他のタビューを含むこともあるが、ヒデ氏はどちらかといえばハイスクール・ロマンスが好みだという。

「少女を含む性的創作物は好きです。ロリコンはわたしの趣味の一つです」、と彼は言う。

わたしは隣にいた彼の妻が、その「趣味」についてどう考えているのかを聞いた。

「問題無いと思っているでしょう」、と彼は言う。「彼女も少年たちのセックスが大好きですから」。

このような創作物は、一年に 3.6 億ドル(4.3 兆円)を生み出す日本の巨大なマンガ産業のちいさな一部分にすぎないが、多くの注目と論争の的になっている。

2014年6月、実際の児童に対する性的虐待を写した(訳者注: いわゆる「三次元」の)画像の所持を禁止する法律が日本では可決された。このような画像の生産及び牌譜は既に1999年に違法化されていたが、日本は OECD 加盟国の中では一番遅く、所持の禁止に踏み出すことになった。

同時に、マンガやアニメ、ゲームにおける、18歳以下に見えるキャラクターを含む「バーチャルな」性的画像を違法化することも検討された。しかし数多くの論争の後、日本の議会はこれを放棄。その決定は、(特に、海外の)児童保護団体やNGOから多くの批判を浴びることになった。

理解のための一つの鍵は、ヒデ氏は、我々が出会ってすぐに、彼の「趣味」を語ることになんの抵抗も持っていなかったということである。少女を含むマンガはある程度の社会的なスティグマを伴うようだが、未成年を含む性的な創作物はかなりメインストリームであるといえる。

日本の立法者は、おそらく、数多くのマンガファン─数百万にもなるかもしれない─の行為を違法化することにためらいを覚えたのではないか。

ヒデ氏のようなファンは、彼らは単に何ら危害を加えないファンタジーを楽しんでいるだけだという。児童モデルや女優は一切関わっていないから、「このようなマンガを創ることによって児童虐待は行われていない」のだ。

しかし、ファンタジーと現実との境界は常にそのように明確だと、どうして言えよう?

東京の秋葉原地区はマンガ世界の精神的な中心である。そこではネオンサインとポップ・ミュージックが眼と耳を圧倒させる。街には複数階を使った本屋が溢れ、ここならば、どんなトピックに関するマンガも見つけることができる。

その18禁部分では、「ジュニア・レイプ」や「ジャパニーズ・プリティーン・スイート」(役者注: あえて訳していない)といったタイトルのマンガを見つけ出すのは難しくない。

「何かに性的に興奮しても、すぐに慣れてしまいます」とアダルトショップで働くトモ氏は言う。「だから彼らは、常になにか新しいものを探しています。そこで、若い、未成年の女性に興奮するのです」。

批判者たちを憂慮させるのはこの点においてである。このようなマンガを創る中で仮に誰も傷つけられていなかったとしても、それは性的虐待を規範化し、促進させ、リスクを増大させるのではないか。

これが本当であるかは誰にもわからない─研究は未だ明確な結論を出していないのだ。しかし日本人の、特に女性たちは、このような自体を憂慮している。彼女たちは、このような画像を、しばしば女性の地位を貶めるようなエクストリームなポルノグラフィや、若い人々の性愛化に注意の目を向けない社会の一部であると考えているのである。

日本において若さへの強い興味を発見することは簡単だ。少女たちによって構成されたポップ・グループが成年男子の群衆に向けて演戯を行っている。ビルボードから広告、マンガに至るまで、女子高生のイメージはいたるところにある。

若い女性に向けた本を幾冊も書き著名になったリリー氏は、高校時代、男性が近寄ってきて、靴下やパンティーを購入すると言い出した時のことをわたしに語ってくれた。

「最低だと思います。変態です」、と彼女は言う。未成年とのセックスは、「強い、独立した女性に疲れた男性たちが実現したい権力の問題である」、と彼女は言う。

リリーの親の世代に有力だった家族のモデル─金を稼ぐ父と、家事をする母─は、未だに日本で強い力を持っている。しかし、日本の経済が弱体化するとともに、これを男性が実現することは難しくなった。

「彼らはビジネスでうまくいっていないので、ロリコンマンガの空想に走るのかもしれません。」

「わたしはそれを憎んでいます。本当に。日本から変態さを無くしたい─少なくともこどもたちをそこに含めないで欲しい。」

しかし、特に性的なファンタジーに関して、何が「よい」のか、何が「適切」かについての見解を政府が提供し、強制することの是非を問う人間もいる。

「批判すること自体はかまいません」とマンガ翻訳者であり、自由な言論の支持者であるダン・カネミツ氏(訳者注: 兼光ダニエル真氏)は言う。「しかし、ある人がどのように行為し、何を考えているかに基いてその人を取り締まる権力を政府に与えてしまうと、思想警察になってしまいます」。

では、彼は、少女たちや、レイプや近親相姦といったタブーを描く漫画家たちの権利のために立ち上がるのであろうか?

「わたしはそれらを好みませんが、他の人がどのように考え、何を共有した以下について、どうこう言う権利はわたしにはありません」、と彼は言う。「他の人の人権を傷つけないのであれば、一体何が悪いといえるのでしょうか?」

秋葉原のマンガショップの中で、児童保護団体のカズナ・カナジリ氏は、マンガやアニメよりも大きな問題であると彼女が考えているものを見せてくれた。メインストリートから外れ、階段をのぼると、DVD ばかりが置かれた部屋がある。

カズナ氏はそのうちの一つを棚から取り、見せてくれた。そのカバーには、露出度の高い水着を着て、大人のように性的なポーズを取る少女(5歳だという)の写真がある。他の DVD も、すべて、実際の子供が登場する。

「子供たちがかわいそう」、とカナジリ氏はいう。

「ジュニア・アイドル」ものと呼ばれるこれらの DVD は、1999年に児童ポルノが違法化されて以降人気を博した。子供の性器が隠されている限り、違法ではない、という解釈だったが、カナジリ氏は、去年の6月に法が強化されて以降はこれらも違法になったという。

「こういったものを作っている人は、適切な処罰を受けるべきです」、と彼女は言う。「こういったものは全く違法ですが、警察はまだ取り締まっていません」。

マンガやアニメにおける児童に対する性的表現はショッキングであり、注意を向けやすいが、カナジリ氏ら活動家は、今のところ、実際の児童を保護する、より重要な闘争に集中している、という。

しかし、こういった論争的なマンガやアニメ表現の禁止を全く諦めたわけではない。

「全て消えて欲しいのです」、と彼女は言う。「2020年には、日本にオリンピックが来ます。その時までには、日本が変態の国と呼ばれることのないようにしたいのです」。

マンガの支持者たちは強く拒否する説明であるが、オリンピックが近づくに連れ、海外の目が日本に向けられる。そうなれば、マンガやアニメを「ウィアード・ジャパン」ではなく、「クール・ジャパン」の一部にするための圧力はより強くなるであろう。

「どうして解散するんですか」に関して

どうして解散するんですか?」なるサイトを、ある慶応義塾大学生が、小学生を騙って作り上げた、として炎上中である。

批判されるべき点は幾多もあろうけれども、何よりも批判されるべきは、問題提起をするのならば、何故質問をするにとどまったのか、という点にあろうと思う。曲がりなりにも大学生であるのならば、自分が問題提起を行う事象について、それが何故問題なのかを説明し、かつ、それを解決するためのアクション・プランを提示するべきである。すなわち、この解散が問題的であると思うのならば、単純に「どうして解散するんですか」と問うにとどまり、答えを見つける責任を読者に押し付けるのではなく、自ら、「なぜこの解散が問題的であるのか」を論理的に説明し、それに対してどのようなアクションを取ることができるかを明示するべきである。それを行わないうちは、まさしく小学生同然であって、政治は小学生が行うものではない。

800億円という数字が紙面を踊っているけれども、選挙に伴って発生する様々なコスト─そこには単純に経済的なものだけではなく、選挙中の意思決定の遅れなども含まれる─は、そもそも代表制民主主義に不可避のものであって、単純に金額の大きさに触れるだけではこの選挙の問題性を指摘したことにはならない

仮に、この解散は不当である─すなわち、法的に適正なプロセスを経て成立したものではない─という議論を組み立てるのであれば、まず、「そもそも内閣に衆議院の解散権は存する(べき)か」、そして「もしそうだとすれば、どのような場合において内閣は衆議院を解散することができる(べき)か」を論じ、この解散がそれに当たらないことを示した上で、最終的に、「どうすればその不当性を糾弾することができるか」─たとえば、署名─をサイト閲覧者に示すべきだった。そこまでやらずに、「ねえ、どうして解散するの?」と聞くだけなら、まったく、小学生でもできる。

観るという関係

どのような関係であっても、関係性を結ぶということはお互いに自らを変質させるということである。社会的存在としての人間は他者との関係性から独立しては存在できない、というよりもむしろ、そのような関係性の総体そのものとして存在している。

それは「観測」という関係においても同様である。人間の行動や社会を対象とする学問の難しいところはまさにこの点にある。フィールドワークを通じて研究主体および対象は不可避的に変容を迫られる。フィールドワークほど直接的ではなかったとしても、「観測する側」・「される側」という関係性のモードに入った瞬間、研究対象の行動は変容するのである(パノプティコンを思い出せ)。

人類学はフィールドワークをその主たる研究手法として採用したことによってこのアポリアを最も苛烈に経験した学問であるといえるだろう。逆に、それ意外の学問では、このアポリアが十分に反省されないまま実験と観測を繰り返してきた点が否めないフィールドもある。

観るということはソクラテスの昔から理論構築の最も基礎的な段階であるけれども、その行為そのものがしばしば権力性を帯び、非対称の関係性を作り出し、結果として観られたものを変質させるということを、人間行動および社会の理解に従事するものは心に刻んでおきべきだろう。

ひがしのみやこ

3年暮らした。

その街は大きく、数多くの人間がそこで蠢いていた。住んでいる間、幾度もその街についてまとまった文章を書こうとしたが、相変わらずミネルヴァの梟は黄昏の訪れと共にしか飛び立たない。

これほど不快な街はなかった。そこではすべての時間が積み重なることなくただ流れ行き、人間たちはお互いをモノとして扱うことで情報量の膨大さを何とかして縮減しようと努力していた。過去を知らず、未来を信じないものが、模倣された欲望を握りしめて糞尿を垂れ流す、そのような場所であった。

あの戦争に負けたことでこの列島に齎されたうち最も醜悪なものがその街を支配している。それを覆す術はわたしにはない。そこで育った生命体を救い出そうとしても、それはもうその街の外では生き続けることができなくなっているのだ。

しばらくの空しい努力ののち、わたしはゲリラ戦を諦め、都市の観測に徹することにした。その結果として判明したことは、先程述べたとおりだ。歴史のない街。出自の構造的忘却と本質の半ば恣意的な無視。現実によって提示された困難をさしあたって回避するためのほとんどアクロバティックな思考停止。模倣された欲望の絶え間ない再生産と感染。

あの街から脱出して、どこへ行くのかは知らない。ゲームマスターの用意したシナリオに何が書いてあるかは、プレイヤーには公開されていない。ただ、場面ごとに、最善と思われる選択をし続けるだけである。

人口一極集中阻止のための覚書

  1. 首都機能移転。京都の首都としての正式な設置、天皇の東幸からの帰還、及び政治機能の京都への移転。
  2. 地方制度改革。廃県置国。令制国の正式な再導入及び道制の設置。
  3. 税制優遇措置。東京外に本社を置く企業に対してなど。

首都機能に関しては、行政機能は在東のままでよいと考える。首都機能を一都に集中させる必要はない。東西両都制とする。

廃県置国に関しては、多少の整理が必要であろうと思われる。国レベルでは、上総・下総・安房(総国)や、備前・備中・備後・美作(吉備国)、などの統合。道レベルでは、主に以下の二つか:

  • 「畿内」の道化および拡大(単に「近畿道」、あるいは朝鮮にならい「京畿道」などとし、近江・淡路・紀伊などを統合するのがよいか)、
  • 東山道の分割(磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後からなる「東北道」と美濃・信濃・上野・下野からなる「東山道」へ分割するのがよいか)

北陸道・西海道(九州)・南海道(四国)・北海道などは基本的にはそのままで機能するだろう。名古屋を中心とする道を作るか否か(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河。東山道との統合もありか)、山陰道・山陽道の経済的自立性をいかに担保するか、は議論の余地あり。東京は武蔵国には属さない特別区とするのが現実的だろう。

ディプロマシーで気にしておくべき 22 + 1 のルール

ディプロマシーは、20世紀初頭の欧州亜大陸を舞台に、7つの帝国がその覇権をめぐり争う、交渉を中核に据えた戦略級ボードゲームである。内政の様相は軍隊の生産・消滅及び移動などの命令のみで、ゲームの勝敗の殆どは外交によって成立する。ここでは、その Avalon Hill 版ディプロマシー第四版の最後のページに有る22のルールを簡単に説明する。

Continue reading

HTTP/1.1 が更新された

HTTP/1.1 just got a major update という記事が Hacker News 一面に出ていた。さっと訳す。正確性は保証しない。


IETF は、 HTTP/1.1 を更新するいくつかの新しい RFC を発表した。

RFC 7230: Message Syntax and Routing
RFC 7231: Semantics and Content
RFC 7232: Conditional Requests
RFC 7233: Range Request
RFC 7234: Caching
RFC 7235: Authentication
RFC 7236: Authentication Scheme Registrations
RFC 7237: Method Registrations
RFC 7238: the 308 status code
RFC 7239: Forwarded HTTP extension

これらは、従来の HTTP/1.1 を置き換えるものである。HTTP オタクとしては大事件だ。

15 年前に書かれた RFC 2616 こそ、皆が実装してきた仕様であり、読者もよく参照として利用してきただろう。

HTTPBis グループはこの仕様を少なくともここ7年間この仕様をアップデートする作業に費やしてきた。HTTP ほど後半に使われているプロトコルには様々なステークホルダーがおり、充足しなければならない意見も多くあったことが想像される。

まだ開発中の HTTP/2.0 も、これらの RFC を参照し、すべての定義をスクラッチから始めるよりも、これらの書類に単にリンクするだろう。

ここ数年、私もこれらの新しい使用書類のドラフトを使ってきた。元のものよりも参照しやすくなるのに時間がかからなかったからだ。

何が変わったか

最大の差異は、古い仕様と比べて、単純に文章量が多いということだ。理解しやすく、読みやすくなり、曖昧さもなくなった。

それから、仕様の核が6つの異なった仕様書に分割された。昔は HTTP のために RFC 2616 が、Basic および Digest 認証のために RFC 2617 があるだけだった。

この2つだけでも、API の作成者が仕様書を最初から最後まで読む意味はある。学ぶことはたくさんあるだろうし、よりよい HTTP API デザインへのインスピレーションが得られるだろう。

それから、308 ステータスコードが新しいスタンダードになった。これは4つ目のリダイレクト ステータスで、永久的なリダイレクトを意味する。308 を受け取ったクライアントは、リダイレクトをたどり、全く同じリクエストを行うことが期待されている。これは、クライアントが通常メソッドを GET に変更する 301 リダイレクトとは少し異なる。

RFC 7239 は Forwarded ヘッダーを標準化する。これは、 X-Forwarded-For や X-Forwarded-Proto などのヘッダーを置き換えるものだ。

以下、変わったことの全く網羅的ではないリスト。

  • 不意のホワイトスペースへの対処の明確化。これは HTTP レスポンス分割の脆弱性を解決するはずである。
  • サーバーあたりの接続数限界が排除された。
  • HTTP/0.9 のサポートがなくなった。
  • ISO-8859-1 のデフォルト charset がなくなった。
  • サーバーは、すべての Content-* ヘッダーを取り扱う必要がなくなった。
  • PUT リクエストでの Content-Range が明確に禁止された。
  • リファラーが存在しない際、Referer ヘッダーには about:blank を利用することが推奨されている。これは、「リファラーがない」と「リファラーを送りたくない」を区別するためだ。
  • 204, 404, 405, 414, 501 ステータスコードがキャッシュ可能になった。
  • 301 と 302 ステータスコードは、POST から GET へユーザーエージェントがメソッドを変更することを許容するように変更された。これは、皆が(間違って)既に実装していたもので、仕様側で実際の運用に沿うように変更を行ったものだ。
  • Location ヘッダーは、フラグメント アイデンティファイアと相対的 URI を含むことができる。
  • Content-MD5 がなくなった。

他に何か面白い変更があれば教えてくれ。

参照

独立党の支持者は他の国の料理を食べない

The Guardian に少し面白いデータが出ている。連合王国独立党の支持者に関する統計である。

  • 「他の国の食べ物をよく試す」と答えた人の割合が最低(51.2%)。
  • 「他の文化や国に興味がある」と答えた人の割合が最低(55.3%)。
  • 「ソーシャル・メディアを使わない」と答えた人の割合が最高(28.2%)。

どの項目についても、正反対の極にいるのは緑の党の支持者であるらしい。また、なかなか面白いことに、最初の二つの項目については、

独立党 — 労働党 — 保守党 — 自民党 — 緑の党

という並びになっている。ただし、労働党と保守党の差は殆どない。

欧州議会選について思うこと

欧州議会選が行われ、フランスの国民戦線 (Front National) やイギリスの連合王国独立党 (UK Independence Party) — いつから連合王国は独立でなくなったのだ? — が躍進したという。

まあ、そうだろうな、と思う。フランスで国民戦線が支持を伸ばしていることは今年前半に行われた地方選挙で明らかであった。イギリスにおいても、移民の受け入れ — 特に問題とされているのはヨーロッパからの移民だ — と多文化主義政策のバックラッシュとして、独立党は労働者を含む層から急速に支持を伸ばしている。スウェーデンだって、オランダだって、欧州連合に加盟してはいないがスイスだって、どこもナショナリスティックな気分が高まっていることは世界的に同じだ。もちろん、日本でも。

「ヨーロッパ市民」という幻想は、結局、今のところは、より強いリアリティを持って迫ってくる「ネーション」という想像の共同体を挿げ替えることができていない。どっちにしろ幻想であることは変わらないのだが、ネーション=ステートという制度的枠組みによって絶えず再生産を行うことができる点が大きく違う。ヨーロッパ、という地政学的想像は、未だ共同体としての同一性を持ちうる程の強靭さを持ち合わせていないのである。

それを何とかするのが憲法パトリオティズムであったはずだが、そもそも「前-理論的」に植え付けられる共同体の想像を、ガチガチの理性的な枠組みによって支えようということに袋小路がある。もちろんリベラル・ナショナリズムは現状をただ追認し変革を生み出す力を全く持たない、規範的には出来損ないの理論だが、かと言って憲法パトリオティズムが現状を変革する力を持つかといえば、否、という気がしている。

共同体を現実的に想像させるために必要なのは理論ではなく政治的行為なのである。それを構成的と呼んでもよいし神話的と呼んでもよいが、その指示内容は変わらない。問題は、それをいかにして、誰が行うか、ということである。

© 2018 The Long Wait

Theme by Anders NorénUp ↑