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「インディアン」という言葉に関する議論の整理

「インディアナポリス」は差別語か? という議論がはてなブックマーク上で話題になっている。山本弘氏が1940年台のアメリカを舞台にした会話文の中で「インディアン」という言葉を使ったことに対して、編集者が「先住民」への置換を要請した、という話だ。

オクラホマの田舎の農家の主人が、近くに住んでいる学者について語っている箇所だ。時代設定は1940年である。
「いや、大学で数学を教えてたとか聞いたな。今はこのあたりで、インディアンの塚を調べてる」
この「インディアン」が差別語だから「先住民」に変えてくれというのだ。

この問題に関する山本氏の議論は以下のようなものだろう。

  • 「インディアン」という言葉がある程度センシティブであることは認める。しかし、「インディアン」が差別語か否かという点については議論がある。
  • 仮に「インディアン」という言葉を利用したとしても、抗議など来る可能性は極めて低い。
  • この言葉が使われているのは会話文であるが、1940年のアメリカの田舎者が「先住民」という言葉を使うはずがない。

一方、当の編集者とみられる方から反論があった。

「リアリティ」というならば、その当時、その地域に本当にインディアンがいたのか
いたのであれば、実際にその地域に住んでいた部族の族称で書けばいいじゃないか、ということです。
「アパッチ族」とか「いあいあ族」とか…。

元原稿では地の文で「先住民」が1回、会話で「インディアン」が1回。
同じものを違った表現で書くのは混乱のもとですし、著者自身「差別語」と認識して地の文では使わないというなら
会話でも統一したらどうかとご提案しました。

編集者の議論をまとめれば、

  • 「インディアン」ということばがセンシティブであって、かつ、差別語か否かという点について議論がある点は認める。しかし、差別語であると思う人間がいるのであれば、それは使うべきではない。
  • 抗議が来る可能性が極めて低いとしても、それは 0% ではない。
  • 地の文でこの言葉を使っていないのは、著者自身に差別語という認識があるからだ。
  • 歴史のリアリティということであれば、その地域の部族の名前を使えばよい。

整理してみると、この議論は山本氏に利がある。簡単なものから順に見てみよう。

「歴史のリアリティ」とはなにか

まず、編集者の出している対案─実際の部族名を使うという点について。これは議論にならない。問題になっているのは、「1940 年、オクラホマの田舎の農家の主人が使う言葉はなにか」という点である。大学教授どうしならまだしも、このような会話で族名が出てくるのは極めて不自然である。そもそも研究対象がひとつの部族だけなのかもわからない。編集者は、「歴史のリアリティ」に関わる論点を誤解している。

「インディアン」は差別語か

編集者の文章内では、「インディアン」は差別語か否かという点についての認識がぶれてしまっている。ある言葉に関して、それが差別語であるか否かという点については、いくつかのレベルがあるだろう。

  • (a) 大多数の人にそれが差別語であるという認識が共有されている。
  • (b) それが差別語であるか否かという点について議論がある。
  • (c) 大多数の人にそれが差別語でないという認識が共有されている。

山本氏は、この言葉は上記の分類では (b) に属する、という理解で一貫している。しかし、編集者は、前半では (b) としながらも、「地の文でこの言葉を使っていないのは、著者自身に差別語という認識があるからだ」という議論によって、後半では (a) のポジションへ移動している。これは議論の運びとして誠実ではないといえる。

差別語であるか否かという点について議論があるのであれば、使うべきでないか

山本氏が地の文でこの言葉を使っていないのは、まさしくこの言葉が (b) に属すると理解されているからではないか。すなわち、「絶対に使ってはいけないものではないが、何か理由がないのであれば代替語がある」というものだ。そして、この場合、この言葉を使うための「何がしかの理由」が上記の「歴史のリアリティ」というものである。

最終的な争点は、「歴史のリアリティ」というものが、論争的な用語をあえて使う十分な理由になりえるか、というものであろう。この点についてはまだ議論の余地があるが、私は、リアリティのために必要な範囲で、但し書きをつけた上で利用する、というところが落とし所であろうと思う。

(補) 「先住民」という言葉は問題を含まないか

これに関しても議論がある。当該 Wikipedia エントリをそのまま翻訳する。

「先住民 Indigenous Peoples」という言葉の使用に対して否定的な議論としては、 (a) 17 – 18 世紀におけるヨーロッパによる植民地化によって被害を被った人々にのみ使用されるものではなく、 (b) 世界のすべての先住民グループをひとつの「他者」に一般化し、 (c) 「先住」という定義に必ずしもあてはまらない移民集団の記憶を認めることに失敗している、などがある。また、カナディアン・インディアンの一部では、フランス語である indigène という言葉が歴史的に蔑称として利用されてきたことから、この言葉は好まれない。

今日のホモ・ポリティクスや、まつたく同じくホモ・エコノミクスは、人格のいかんを問わず、怒りも興奮もなく…ただザツハリツヒな職業義務としてのみ自己の課題を果たすのであつて、具体的な人格的関わりによつてではない。そして他ならぬそのとき、彼らはその課題を、現代の権力秩序の合理的規則にそつた意味で最も理想的に遂行しているのである。 – マックス・ヴェーバー

ナショナリズム研究の未来

テッサ・モーリス=スズキが Japan Focus に寄稿した「安部ナショナリズムの再ブランド化(英語)」によれば、ケヴィン・ドークなる米ジョージタウン大学教授は安倍晋三のナショナリズムを高く評価しているという。

ドークは、ナショナリズムを「市民的 civic」な形態と「民族的 ethnic」な形態の二種類に弁別し、安倍のそれは市民的であって、弁護されるべきナショナリズムである、としているようだ。

モーリス=スズキも指摘しているように、このような二分法はすでに数多くの論者によって批判されてきた。ナショナリズムはひとつの現象として捉えられるべきものであって、それがどのような形態で発露するかは二次的な問題にすぎない。市民的に見えていたナショナリズムが、ある日突如として特定の民族への憎悪を語りだすのはそう珍しいことではない。それは表層的には異なるもののように見えるが、より深いところでは同一の機制によって働いているものなのだ、ヤヌスの二つの顔のように。

一方で、だからといって、ナショナリズムを全面的に否定する訳にはいかない。それは近代において曲がりなりにもデモクラシーというものを成立させた要因の一つなのだ。ナショナリスティックな動員というものは、軍事的に利用されたならば恐ろしい暴力を生み出すが、我々はそれなしでは市民が選挙という面倒なプロセスへとコミットすることの意味付けを満足に行えないのである。

我々の課題は二段階的である。すなわち、

  • ナショナリズムの発生し作動する内的機制を理解し、その諸形態を説明付け、
  • 適宜各国のナショナリズムを制御し、暴走を阻止すること。

これら二つの課題に向きあって初めて、ナショナリズム研究というものに意味があるということができる。

この意味で、現在のナショナリズム研究はまだ発展途上である。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエリック・ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』などは重要な著作だが、それは歴史的現象としてのナショナリズムを取り扱うことに専ら注力しており、その内的機制をきちんと問うところには至っていないとわたしは考えている。アーネスト・ゲルナーの理論については、ここのところ、再検討の余地があるのではないかという気もしているが、まだそこまでしっかりと読み込むには至っていないのが現状だ。

ソーシャルゲームはプロレフィードか

時は21世紀前半。我々は情報社会に生きている、と人は言う。インターネットは吾々の生を益々簡便なものにし、さまざまな障壁を取り払う。かつてある哲学者は資本こそが最も冷徹な地ならし屋だと考えたが、いま人々の生活世界を恐ろしいスピードで水平にしていくのは吾々をつなぐネットワークとそこで伝達される情報である。そして吾々は、それがよいことであるような気さえしているのだ。

けれども前世紀のおわりに楽観的な識者たちが夢見たようにインターネットが世界を益々民主的に変貌させていくということはない。たしかにソーシャルネットワークはトリポリで革命を起こしたかも知れないが、情報が資本と同じような差異の運動のさなかにその本質をもつというのならば、その自由な流通の結果発生するのは、情報を多く持っているものと少ししか持っていないものの格差なのではないか。

近年、情報強者と情報弱者という対立軸を耳にするようになった。グローバリゼーションの波にうまく乗った情報強者はインターネットを使いこなし自在に情報を摂取し編集するが、弱者は情報の海の中に溺れいまにも窒息するおそれすらある。或いはこれは日本的ガラパゴスにおいては PC を利用する層とガラケーを利用する層の二分化としても特徴付けられるかも知れない─その場合は後者は情報の波に触れてすらいないということにもなろう。

最近流行の所謂ソーシャルゲームを遊んでいるのは後者の人々であるという。曰く、グリーや DeNA の提供するゲームは、PC を利用して(情報強者によって)作られているにもかかわらず、情報弱者によって利用されている。六本木ヒルズで作成されたソーシャルゲームは、高速道路を走り回ることを生業とするトラックの運転手の左手で遊ばれているというのだ。

それがどれだけ本当かはわたしは知らない。けれども、「大衆のための娯楽」としてのソーシャルゲームが社会の特定の層によって遊ばれている、というのは、たしかに有り得そうな話ではある。少数の強者が多数の弱者のために大量の娯楽を生成し、売りつける。それは、はて、かつて様々に到来を予言されていた社会のいち構図ではなかったか。

ジョージ・オーウェルが「1984年」で描き出した社会には、プロレフィードという言葉がある。それはこの小説の舞台であるディストピアにおいて搾取される社会的階級、「プロレ」に対して支配者たる党から提供される小説や映画、音楽などのエンタテイメント一般を指し示している。必要な情報が与えられず、何が真理であるかが日々変更され、歴史が書き替えられ続けるこの社会において、プロレたちは党のインナー・サークルによって飼い慣らされ、愛国心を注入されて満足した生活を送っている。しかしこの言葉が示すとおり、党はプロレに供給されるこれらの娯楽を、彼らに与えるための「餌」とみなしている。党のアウター・サークルがインナー・サークルの機嫌を伺い忠誠を示すペットだとすれば、プロレは純然たる家畜として認識されているのである。

動物。まさしく党の標語は(かの有名な「戦争は平和である」の他に)「プロレと動物は自由である」というものであった。ポストモダンが到来したといわれて幾何かが経過した今日において、吾々はすっかり動物として生きることに慣れてしまったのであろうか。

いや、何を言っているのだ。吾々はイングソックの支配下に生きているわけでもないし、ソーシャルゲームを生産している会社が何らかの惡しき意図を持っているわけでもない。そこにあるのは純粋な利得計算だ。遊ぶ人間がいて始めてこのビジネスは成立しうるのであって、そこには全体主義的な意図など何もない。

それでも、歴史が終わった後に民主主義と資本主義が支配するこの世において、人々が自由に興じているはずのソーシャルゲームが、かつて全体主義的社会の象徴として恐れられたプロレフィードをどこかしら思わせるということは、何とも皮肉なことではないか、と思うのは、わたしだけではあるまい。

アメリカは哀しい社会であるな、という話

ひょんなことから「ソーシャル・ネットワーク」を見た。おそらくは見ないで終わるであろう、と思っていた映画であったので、少し驚いた。公開当時から話題になっていてはいたが、様々な方の寸評を見聞きして、まあ、わたしには関係のない物語に違いない、と感じたので、時間とお金を費やしてわざわざ見る、という気分にはならなかったのである。

けれどもどういうわけか、時間もお金もそう使わずに、向こうから見てくれとやってくることになった。具体的にいえば、と書こうと思ったが、まあ具体的にいう必要はあるまい。何はともあれ、DVDが我が家に、親しい友人と共にやってきた、と思ってくだされば良い。

そういうわけで男3人、膝つき合わせて映画を見た。ソファの上で友人が姿勢を変えるさまを横目で見ながらジェシー・アイゼンバーグ演ずるマーク・ザッカーバーグの貧乏揺すりを鑑賞したのである。

ジェシーはまさしくユダヤ系アメリカ人、という外見であると思う。声の響きから立ち振る舞いまで、本当に何から何までわたしのユダヤ系アメリカ人の友人とよく似ていた。というか、友人を見ている気分になった。ユダヤ人の男とアジア人の女、という話が劇中でもあったが、彼もまた東アジアの女性を好んだ。当時のわたしには良く理解できない性癖ではあったが、あれはアメリカ社会の何らかの構造を反映していたのかも知れない、等と考えながら、アイゼンバーグのあまり動かない表情を見つめていた。そのせいで多少感情移入して楽しむことができたようにも思う。

閑話休題、映画の感想である。結論から言えば思っていたよりも良かった。何も期待していなかったから、かも知れないが、様々な点で楽しめることが多かった。たとえばアメリカで女性として生きることはどういうことか、という点も考えさせられたし(「わたしはスカーフを巻くような類の女ではない」という強烈な主張や、自らを純粋なオブジェにまで加工することの出来るある意味での極地を見せつけられた)、マーク・ザッカーバーグはやはり非常なる凡人であるな、という感想から、このような人物が突如として億万長者になるということはいかなることか、ということをしばし考えたりした。

何よりも感じたのは、タイトルの通り、合衆国とは哀しい社會であるな、ということであった。劇中に登場する様々な人間─マーク、エドュアルド、ショーン─は、みな何かしら欠けているが、何に欠けているのかもわからないほどに、その欠落性に囚われているのではないか。彼らはことあるごとにパーティーを行うが、その熱狂は何かからの逃避であるようにしかわたしには見えなかった。

うむ、なるほど西洋社会の人間は、ことあるごとに寄り集まって酒を呑み、部屋を暗くして踊り明かす、という奇妙な風習を持っている。劇中にも出てきた台詞であるが、制御を失うことを何よりの目的にしているようである – everything will be out of control, you have to come and see how it goes! – それは日常があまりにも制御されすぎているからか?制御を失うために場をあつらえるとは、果たしてどういうことであるのだろうか?

等と考えているうちに劇中の審問は終わり、ザッカーバーグが独りパソコンの画面へと向き合う孤独なラストシーンが訪れる。はて、この映画は何を描きたかったのか?「億万長者となった彼は、しかしいまでもあのボストン大学のドイツ系の娘を愛していたのでした」という悲哀の物語か?「起業には様々な物語があり、成功者の背負うものも決して煌びやかな過去だけでは無い」という若者への警鐘か?

むろん解釈はひとつではない。映画には様々な見方があってしかるべきである。けれども、少なくともわたしには、この映画が、現代のアメリカに生きることの悲哀を描き出しているようにしか見えないのである。

アンネシュ・ベーリング・ブレイビク: ネット世界の狭いビジョン

以下は、トマス・ハイランド・エリクセンによる Anders Behring Breivik: Tunnel vision in an online world の全訳である。エリクセンは、ノルウェーの人類学者。ナショナリズムやエスニシティにかんする書籍を多数著しており、ブレイビクの1500頁にわたる「マニフェスト」で、唯一「ノルウェーの堕落の象徴」として名指しされた学者である。このエッセイは、インターネットによる選択的な情報の摂取がブレイビクの狭い世界観を形成したのであって、より広い目で世界を見るために新聞などの紙媒体で情報を収集することが重要だ、という論調になっている。その内容そのものに対しては色々と思うところがあるが、ノルウェーにおいて先の事件についてどのような言論が展開されているかを表す文章ではあると感じて訳すことにした。訳の正確性は保証しない。

アンネシュ・ブレイビクの世界観は、オンラインゲームと反イスラームのブロゴスフィアによって形成されたものと言えそうだ。社会が分裂していることを良く表している。

ノルウェーの警察がそこまで極右の活動に注意を払ってこなかったのには理由がある。単純に、そこまで目立っていないのだ。ノルウェー国内で極右を自称している人間は40人と予想されている。

しかし、ブロゴスフィアの暗部に詳しい人間ならば、インターネット上で激しい憎悪をまき散らしている存在に何年も前から気付いていた。「腐敗した多文化主義のパワー・エリート」を批判し、特にムスリムの移民について侮辱的な一般化を行う言論を生み出す人々である。

これらのウェブサイトやブログ、チャットグループに書き込みを行っている人間は、単に「右翼」というわけでは不十分である。「イスラーム化反対フォーラム」のあるメンバーは、同時に社会主義左翼党の党員でもあった。他の人々も、自らを社会民主主義的可知の体現者と見なしたり、啓蒙の火を燃やし続ける最後の砦だと主張したりしている。もちろん、より定型的な右翼的観点を保持している人々もいる。レイシズムをあらわにする者から、西欧をムスリムが計画的に乗っとろうとしているとする陰謀論者まで。毎日書き込みを行うものもいれば、月に一回やってくるものもいる。彼らが形成する緩やかなネットワークは、その数を予想することを困難にしている。

これらの人々が共通に持っているものは、まず、多様性の擁護者たちに対するルサンチマンである。これらの「エリート」は「反逆者 traitors」、「売国徒 sellouts」、「ナイーブな多文化主義者 naive multiculturalists」と呼ばれる。イスラームは西洋の民主的価値とは相容れない、ということも広く信じられている。この観点は、15万のムスリム人口(しかも増加中)を抱える国にあっては非常に問題だ。そのような考えがどれほど人口に膾炙しているか知るよしもないが、無力で無害なものとして片付けてしまうことはもはやできない。

今回、ブレイビクがはやりの服と髪型で着飾り、オスロのウェスト・エンドから来た国産のテロリストである─髭を生やした外国産のテロリストではない─という事実は、単に上記のネットワークのより詳細な検討のみではなく、ノルウェーの自己イメージそのものに対する冷靜な、しかし批判的な省察へと繋がるべきだ。ノルウェーという国の成員となるためには、宗教や肌の色はまったく関係がない、ということを我々のリーダーが明確にすることは多くを安堵させるだろう。1905年から1957年まで王位に就いていたホーコン7世は、自身が「共産主義者の王でもある」という有名な台詞を残した。ハーラル5世もまた、自身が「ノルウェーのムスリム、シーク教徒、ユダヤ人、そしてヒンドゥ教徒の王でもある」ことを明確にすることが、現在の状況に対する最善の応答となるだろう。それは言うまでもないことなのかも知れないが、このような言明は、強い排外主義と宗教的偏見がことばを失うほど凄慘な行為の思想的なインスピレーションとなってしまった今日の空気を少しでも清淨化する機能があるはずだ。

どんな国も、ある程度の繋がりが必要だ。それが実際にいかほどのものかは、正統な議論の対象とすることができる。文化的多元主義は国の分断と信用の失墜へと繋がると考えるものもいるだろう。それはある場面ではそうかも知れないが、常に真実であるわけではない。教育や住宅供給、仕事といった共通のインフラや制度がきちんと公平に機能する限り、社会は多様性を受け入れながら存続することができるはずだ。しかし、我々が対話を止めてしまった瞬間、崩壊は忍び寄ってくる。これが、ブレイビクとそのシンパたちに起こったことだ。彼らはインターネット上で別の現実を作り上げてしまったのだ。

インターネットによる公共圏の分断は学問上及びジャーナリズム上の関心事となってきた。ここ最近では、エリ・パリサー Eli Pariser の The Filter Bubble が、いかにして Google や Facebook といったインターネット企業が、我々のウェブ検索やアップデートを、ユーザープロフィールや過去の検索履歴に基づいてフィルタしているかをよく描き出している。私が環境保全主義者であれば、Google で「気候変動」と検索した際、石油会社の重役であるあなたとは異なった結果を得る、というわけだ。このフィルター・バブルはたとえば Amazon でも最適化されたオススメを表示したりする。知らない間にそれは我々のウェブ検索の背後で動作し、我々が気付かぬうちに既存の世界観の再生産を促すのだ。結果、我々はお互いにはぐれてしまい、異なった世界に住むことになる。

ブレイビクは自らイスラモフォビアや極右的なウェブサイトによって洗脳されることを望んだのだろう。けれども、もし彼が情報を新聞から摂取していれば、そこにはヨーロッパの自信の失墜や軍事的イスラームの勃興以外のニュースが記載されていただろう。あの週末の衝撃と不信から一つ学ぶことがあるとすれば、文化的多元主義は国民的な団結に対する脅威とは必ずしもならないかも知れないが、インターネットを通じた選択的な情報の摂取から得られる狭い世界観は脅威となる、ということである。

生の無意味さについて

これはしばらく前に、ある友人の著したブログ記事に対する返信として、自分のメモ帳に走り書きしたまま忘れていた文章である。調べてみたら、友人の文章は既にネットから消えていたのだが、せっかくだからここに掲載することにする。ただの走り書きなので、何らかのまともな結論があるわけではないのだが。

友人が興味深い記事を書いている。返答というわけではないが、思ったことを幾つか覚え書き程度に記しておく。

彼の書いていることをざっくりまとめる。即ち 2000 年代に起きた複数の通り魔的無差別殺人事件は、現代社会が近代特有の病、即ち意味の喪失─ニーチェが神の死を叫んで以来特有のものであり、ヴェーバーが『職業としての学問 Wissenschaft als Beruf』で記述したような精神のあり方、脱呪術化 disenchantment (Entzauberung) ─に耐えられなくなった結果である。これらの事件はそれが悪のための悪であること、目的としての無差別殺人であることによって、カント的定言命法の逆像として我々の目にうつることとなる。それはあらゆる動機付け、あらゆる社会的文脈から「自由」であり、ゆえに社会秩序を破壊するものとして現れる。これこそがこれらの事件を「トラウマ的」と呼ぶべき理由であり、現代の日本社会もまた、これらの事件をひとつの異常ではなくデュルケーム的な意味での normalité として持ちうる ((このデュルケームの有名な論点については Les règles de la méthode sociologique を参照。邦訳は『社会学的方法の規準』宮島喬訳。社会の実体視、ある社会の様態にとって特定の犯罪の形態が正常であるという考え、などなど、この分析が採用している視点はデュルケーム的であると言っていい。)) 限りにおいて、「トラウマ化する社会」として理解することが可能なのである。

科学は(当たり前のことだけれど)人生に意味を与えることなどできない。近代科学の絶え間なき前進によってあらゆる分野が専門化し、学問に身を置くことがそのまま十全な真理への到達を意味しなくなったとき、それを行う「意味」は既に失われているのである。鉄の殻の中で生きる人々にとって、意味を与えてくれるものは何もない。我々は人生に対して自ら意味を注入しなければならないのである。それが偽りの意味であると知りながらも…

さて、生の意味を自ら補填しなければならなくなった際、人はいかにしてそれに答えることができるか。論理的には、幾つかのオルタナティブがあり得るだろう。ひとつには、世界のすべての事物を自分との関係性において意味づける、という道がある。この場合、自我はあたかもすべてを黄金に変える手を持ったミダス王のように振る舞うことができるだろう。世界のすべては自己と関係する限りにおいて有意味であるのだから。これは独我論と似ているが、存在論にまでそれを拡張しない、という点で少し異なるといえる。たとえばニューエイジの宗教はしばしばこのような特徴を持つ。偶然の否定─悩みと共に本のページをめくれば、それに対する回答が必ず載っているという考え。自己の聖性の強調─「すべて人は神である」。一元論的汎神論─「すべてのものはひとつである」。エトセトラ。彼らは「ポジティブ・シンキング」によってすべての世界の有り様を肯定し、意味づける。

ところでこのような世界観はたとえばインターネットなどの情報技術と非常に親和性が高い。2006 年、TIME の PERSON OF THE YEAR に選ばれたのが「YOU」だったことは記憶に新しい。表紙に書かれていた英文を思いだそう:Yes, You. You Control the Information Age. Welcome to your world. ここはあなたの世界なのだ。この想像力の及ぶ限りあなたこそが主役であって、あなたは絶対的に万能であり、未来を変えていく希望の星なのである。スピリチュアル、環境、グローバリゼーションなどの言説の節々にこのような傾向性は見て取れる。神が死んだのならば、自ら神となればよいのである。

しかしながらこのような論理には限界がある。たとえばそれは真にトラウマ的な経験に答えることができない。不確かな物言いになるが、自分が意味づけできる以上のものを目の前にしたとき、この論理は破綻する。所謂〈現実〉というものに近づいてしまったとき、それは自らの運動を止めざるを得ない。この現実は、しばしば「死」によって代表される。物語に組み込まれた象徴的な死ではなく、ただひたすらに無意味な、突然やってくる肉体の死。剥き出しの死。何の物語性もなく、序曲も間奏もクライマックスもなく、ただ突然に降りかかる出来事としての死。このような出来事に直面し、それを「有意味なもの」として受け入れることができなかったとき、この論理は崩壊する。そこに空いた穴から、あらゆる世界の無意味さが流れ込んでくるのだ。神なき時代に人間は神にならんと欲するが、そのような試みは必ずや失敗するのだ。トルストイは近代的状況における死の無意味化を指摘したが、我々は純粋に無意味な死から逃れきることなどできはしないのだから。

〈トゥラー〉と〈ケマリ〉、あるいはカスタネダの鎮魂

マレーシアのマ・ベティセック族には〈トゥラー〉と〈ケマリ〉というふたつの概念がある。これらはそれぞれ、人間と人間以外の諸生物との関係を表す、対立する概念の連合を表している。彼らには生き物を見る目がふたつあるのだ。〈トゥラー〉においては、かれらは暴力的で下級な存在であり、かつて人間だったがカニバリズムを行ってしまい長老たちに呪いをかけられてしまった存在として現れる。〈トゥラー〉は呪い、支配の意味である。これらふたつの概念がひとつのことばによって統合されているのは、そこでは正統的な支配というものは成功した過去の呪いによって作り出されるという観念が強くあるからだ。そこでは諸生物は一義的には〈食物〉として存在している。人間とは異なる彼らは、自らの犯した罪によって呪われ、食べられる運命にある。

食物の観念は重要である。〈トゥラー〉において動物の食べるものと人間の食べるものは厳格に区別される。人は火を通したものを食べる。獣は生のものを食べる、という風に。豊穣を祝う〈ジョ・オウ〉の祭りにおいて、霊に捧げられる米は生のままであり、霊たちが踊る場はひとの踊る場とは厳密に区別されている。

このような見方は〈ケマリ〉においては180度転倒させられる。植物も動物も根本的な霊性において人間性を共有しており、人間よりも上位の存在として、マ・ベティセックの祖先たちとして立ち現れる。そこでは彼らを食べることは禁止されている─〈ケマリ〉は「タブー」の意味である。人々が病に倒れ、災いが続くとき、それは様々な霊性のしわざとされて、シャーマンはそれをなだめるためにたとえば虎の霊を自らに憑依させ祈りを捧げるのである。その際に捧げられる供物は半ば火が通されており、人間と動物の共有された霊性が強調されている。

このような全く対立する自然観を、どのようにしてマ・ベティセックの人々は保持しているのだろうか、と人類学者は問うかも知れない。一方で獣を見下しておきながら、他方では霊として助けを請うなどということは、なんとも一貫性のない、都合の良いことではないか。これらの観念群は厳密に区別され、一方が支配的であるときは他方は消え去るのだから、彼らはふたつの象徴体系を保持しているということでよろしいか。

けれどもこの様な問いは全く無意味に終わる。我々はここで現されている体系化への欲求が優れて文化依存的であることを何時の間にか忘れているのだ。「象徴体系」、とクリフォード・ギアツがいうとき、それはあたかも様々なシンボルによって構成されるシステムが、研究されるべきものとしてまずは存在するかのような響きを我々に与えるが、しばしばこの様な体系は、異なった考えをどうにか西洋近代の語法に翻訳するために人類学者自らが構築したものにすぎないのである。

真木悠介はいう。

カラスが予言するというような諸民族のいいつたえにおいて、問題は個々の動物や植物の行動を「予兆」としてよみとる知識の蓄積といったものではない。その様な個々の「予兆」への技術化された知識自体は、我々の「世界」の中にも、たとえば仮説的情報として切り取ってくることができる。けれどもこのような「知恵」じたいをたえず生成する母体そのものは、たとえばこの世界の全てのものごとの調和的・非調和的な連動性への敏感さや、自己自身をその連動する全自然の一辺として感受する平衡感覚の如きものであり、「予兆」への技術化された個々の知識とは、このような基礎感覚の小さな露頭にすぎないのだろう。(「気流の鳴る音」ちくま学芸文庫、56頁)

人類学者はマリノフスキがかつて夢見たように「原住民の目から世界をみる」ことを望む。けれども人類学者がこのような「基礎感覚」をひとたび体得した途端、かれが愛してやまない人類学という学問分野においてでさえもかれは異端者として抹殺されるのである。「カスタネダ効果」とはすなわち、そういうものではなかったか。

ならば人類学は呪われた学である。みずから望んだ地点へと到達した瞬間、それはがらがらとくずれさって自己崩壊を起こしてしまうのだから。否、ひとたび身を焼き再生をはかる伝説の不死鳥のように、自己崩壊こそがかれの目的であったのだろうか。

カスタネダの行方を知るものは、未だ居ない。

『想像の共同体』についてのいくつかの誤解

ベネディクト・アンダーソンの著した『想像の共同体』という本がある。80年代に勃興したナショナリズム論の白眉であり、ナショナリズムを研究するものにとってはひとつの到達点であると同時に開始点でもある。しかし本書は、あらゆる古典と同じように、あまりにも有名になってしまった余り、陰翳に富んでいたはずの議論が単純化され、誤解され、しばしば誤って理解されたまま批判の対象となってしまうことがある。マーク・トゥウェインの言うように、「古典とは、誰もがすでに読んだ事があると思いたがっているが、誰も読もうとしないものである」というわけだ。

しばしばアンダーソンに対して行われる通俗的な批判は、「あらゆる共同体は想像の産物ではないか」と指摘することで、その分析的意味を減じようとするものだ。このような批判が的を射ていないことは、本書の序章を読むだけでも朖かである。この批判はアンダーソンがアーネスト・ゲルナーに向けて行った当のものなのだ。アンダーソンは言う:「直接顔を合わせて連絡を行う原始的村落より大きいあらゆる共同体(或いはそれでさえも)は想像されたものである。共同体は虚偽/真実という軸によってではなく、その想像のされ方によって弁別されなければならない ((Anderson (1983) p.6, 拙訳)) 」。原書の署名が Imagined Communities と複数形になっているのは何故か、ということだ。ネーションが他の「想像の共同体」、先行する文化的システムである宗教共同体及び王朝と異なるのは、それが明確に限定された領域に対して十全な主権性を持つものとして考えられるということである。

第二によく見られる誤解は、アンダーソンはナショナリズムの「創造性」を批判することでそのプロジェクトを否定しようとしている、というものである。これは誤りだ。近年行われたインタビュー ((Benedict Anderson: “I like nationalism’s utopian elements”。題が多くを語っている。バウマンに対する批判や、パスポートという制度の1900年代における発明についても触れられている。)) からも明らかなように、彼の試みは決してナショナリズムそのものを否定しようとするものではない。確かに彼自身はナショナリストではないし、「何がネーションという想像をあれほどまでに強力にしたのか」を問い、その秘密を暴こうとする。それが「近代の産物」である、「想像されたもの」だと指摘することは実践的には過激なナショナリズムに対する反論になっていることは間違いない。しかし一方で彼がナショナリズム以外のプロジェクトに積極的に同意するかと言えばそうではないし、寧ろそれがより良い方向に向かうことを願っている。この立場は近年のリベラル・ナショナリズムの立場に近いといえるのではないか ((デイビッド・ミラー『ナショナリティについて』風行社、2007年)) 。

最後に、彼の企図は「ナショナリズムの本質」を明らかにしようとするものではない。それはあくまで、文化的構築物としてのナショナリズムがどのような経緯から生成され、そして何故あれほどまでに多くの熱狂的支持を得たのかを詳らかにすることにある。そもそも「本質 essence」についての語りはナショナリストこそが得意とするものである。彼の仕事が「人類学的」であるのは、ゲルナーがしたようにナショナリズムを分かりよい一文に要約するのではなく、陰翳に富んだ物語を描き出そうと試みたからではないかと私は考えている ((もちろん、アーネスト・ゲルナーがケンブリッジ大学ウィリアム・ワイズ社会人類学教授であったことは覚えておくべきだろうが…)) 。

アンダーソンを他の論者から際立たせているものは、第一に彼が国民意識の先駆をラテンアメリカのクレオールに見いだしていること、第二にナショナリズムというイデオロギーに或程度肯定的であること、そして「モジュール化」という概念を導入することでいかにしてネーションという「構築物」が世界に広まっていったのかを説明しようと試みていることではないかと思う。同時に、彼の議論の問題性も、ここにこそ含まれている。

アン・ローラ・ストーラーの BDS 支持表明

独自のフーコー解釈などで著名な人類学者/植民地研究者のアン・ローラ・ストーラーの BDS (Boycott, Divestment, and Sanctions) への支持表明があって、興味深かったのでさっくりと翻訳してみた。適当訳なのでよりフィットする訳があれば教えて下さい。

植民地研究─植民地の状況の比較、植民地史、植民地政権が依って立つ暴力的かつ巧妙なガバナンスの形態の研究─の教師及び学徒として三十年ほどを過ごしたものとして、イスラエル国家を植民地国家でないと説明することは難しいと言えるでしょう。イスラエルの過去や、現在行われているパレスチナの土地の違法な占有、日常生活の全ての側面の人種化、大規模かつ漸次的なパレスチナ系家庭の破壊、暮らしを壊し、社会及び家族の構造を壊すための努力などを、協調的かつ集中的な concerted and concentrated 植民地デザインによる大規模殺害 decimation であると認めないことは難しい。これらのよく練られた実践は、植民地主義を定義し、帝国主義の時代各所に見られたその当のものです。他の植民地政権と同じように、イスラエル国家は地理的な教会を策定して引き直し、パレスチナ人の市民権を宙づりにし、イスラエル人には私的な空間として認識され保護されている空間に対して恣意的に介入を行っています。

イスラエルは特異ですが独特ではありません particular but not unique。その占領の技術はイスラエル法の根拠のない利用に基づいています。これらはパレスチナ人を置換し追放し replace and displace、自らの領土を拡大することにコミットしている国家の施策です。この拡張は恒常的で、内密であると同時に堂々と、日々行われています。エルサレムの旧市街の部屋部屋で、植民共同体の家々で、そして「安全保障」の名の下に設置された壁が家や野原を切断し、街区を分断し、法的に認められたパレスチナ人地域へと浸蝕していく全ての場所で。これは歴史の強奪であると同時に、今日植民者たちによって真夜中のイスラエルにベッドを放り出される人々の未来の可能性の強奪でもあります。

もしハンナ・アレントが定義したようにデモクラシーが国家内の全人口に対して「権利を持つ権利」を付与することを意味するのならば、イスラエル国家は民主的であるとは言えません。デモクラシーは排除の原則や土地、帰属、市民権(イスラエルが1948年以来賞揚してきたもの)を奪われたディアスポラの創造の上につくられるものではありません。これらの理由から、私は、積極的または消極的にイスラエルの占領を容認し拡張し、国際法を犯し、軍事的管理を強制しパレスチナの自己決定権を否定するイスラエルの諸機関の BDS 国際ボイコットに対する支持を表明します。

アン・ローラ・ストーラー

2010年9月10日

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