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メッセージの伝達に責任を持つのは誰か?

ウェブライターであるヨッピー氏が、「ネイティブ広告ハンドブック」のわかりにくさと、そのわかりにくさを指摘した際発生したコミュニケーションに対して大いにお怒りである。こういったコミュニケーションの齟齬は、何故起きるか。以前から考えていたことを適用するよい機会なので、書く。

特に日本語におけるコミュニケーションに関して知っておくべき事は大きく二つあるとわたしは考えている。それは、「ハイコンテクスト(高文脈)な文化」、および「パフォーマティブ(行為遂行的)な発話」である。これらのことさえ飲み込んでしまえば、日本人とのコミュニケーションはバッチリ理解できるといっても過言ではない。

「ハイコンテクスト文化」は人類学者の考えた概念で、「ローコンテクスト文化」の対義語である。ざっくりと言ってしまえば、ハイコンテクスト文化においては、言葉の選択や発話のタイミングによって、実際の文章が指示しているものよりも遙かに多くのメッセージが伝達される。日本語はその最たるものである。Wikipediaが提示している、わかりやすい具体例を見てみよう。かかってきた電話をいま取った、と仮定せよ。そこから以下の質問が聞こえてくる。

日本語: 花田さんはいらっしゃいますか。
英語: May I speak to Ms Hanada? (わたしは花田さんと話すことはできますか。)

さて、どう答えるべきか。

日本語においては、「花田さんがいるかどうか」を聞いているだけに見えるので、「はい、います」あるいは「いいえ、いません」が正しい答えのように見える。しかし、実際には、日本語ネイティブがこの文章に遭遇した際、かれは「はい、いまかわります」と答えるであろう。これは、「電話に出た際にいるかいないかを聞いていると言うことは、当然、花田さんと話したいということだ」という推論を基にしている。

ここまではよい。

実際に日本人とコミュニケーションを取る際に問題となるのは、以上の性質の結果として、メッセージ伝達の責任が、話し手にあるのか聞き手にあるのかが変わってくる、ということである。一般的な日本語のプロトコルでは、メッセージの伝達に責任を持つのは聞き手である。一方、米国英語などのプロトコルでは、メッセージの伝達に責任を持つのは話し手である。どういうことか。

上記の例で言えば、「花田さんと話したい」という真のメッセージが話し手から聞き手に伝達されることに対する責任は、聞き手にある。それを把握せずに、「はい、います。花田さんがどうかしましたか?」と聞き返すことは、聞き手がその責任を放棄しているということであって、日本語のコミュニケーションとしては失格なのである。

だから、このプロトコルを前提として生きている人は、「わたしが受け取ったこのメッセージの真の意味は何か?」ということを常に考えなくてはならないことになる。一を聞いて十を知る、すばらしいことだ…と言うこともできるかもしれない。

しかし、二つのプロトコルが衝突するとき、これは大きな問題となる。1を聞いて十を知る、いや、知らなくてはならない、と考える人間(仮に甲としよう)は、1を聞いて1を知ることは責任の放棄だと考えるようになる。一方で、メッセージの伝達に責任を持つのは話し手であるというプロトコルに基づいてコミュニケーションを行う人間(仮に乙としよう)は、1を言って1が伝わるとは限らないため、1を伝えるためには3言わねばならないと考えるようになる。

結果どうなるか。乙が3言ったことに基づいて、甲は30理解することになる

乙であるヨッピー氏は、「発信者側もなるべく多くの人に理解されるようにコンテンツを作るべき」と言っただけのつもりであった。しかし甲である藤代氏は、「いまや誰でも発信者になり得るから、素人ライターでいいんだ」というメッセージとして受け取ったのである。

何たる悲劇であらう。

教訓1。日本人とのコミュニケーションにおいては、メッセージの伝達の責任者を予め明確にすべし。

次。「パフォーマティブ(行為遂行的)な発話」とはすなわち、「それによって意味伝達以外のことを成し遂げようとする発話」ということである。どういうことか。例を挙げよう。

わかりやすいのは、キリスト教の結婚式の際、新郎新婦が「誓います」ということである。彼らは「誓います」と言うことで誓いを行う。すなわち、単純に意味伝達のためだけではなく、誓いという行為を遂行するために発話が行われている

もちろん、発話が社会的行為である以上、どのような発話もある程度のパフォーマティビティを帯びる。しかし、純粋にパフォーマティブな意味を持ってなされる発話というものもある。そしてそのようなものは、しばしば暗黙のうちに行為を遂行しようとするのだ。ここで見られる高広氏の発話もそのようなものだ。

つまり、ここで高広氏が「メディアってなんですか?」と聞くことによって成し遂げようとしているのは、ヨッピー氏がメディアの何たるかをどう考えているかを知る、ということではない。その後の会話の発展を確認した上でのわたしの推測によれば、それはもっと別の目的で行われている。すなわち、ヨッピー氏に、「ヨッピー氏と高広氏の間にある暗黙の格の違い*」を認めさせ、もって(ヨッピー氏のつぶやきによって乱されてしまった)広告業界における「規範*」を取り戻すこと、である。発話の内容はこの際何でもよい。

すなわち示威行動である。こういった行為遂行的発話は、「ここはわたし(あるいは我々)のナワバリである」、「ここからは入ってくるな」というメタ・メッセージを伝えるために行われるのであって、「メディアとは何か」に関する建設的な議論を行うために発せられるのではない。だから、純粋に意味内容に基づいて議論を行っても、話がすれ違うばかりで意味がないのである。

特に日本人とのコミュニケーションにおいては、上の高文脈性と合わさり、非常にハイコンテクストで実際には聞き手側からすると理解しきれない行為遂行的メッセージを話し手が発している可能性がある。

教訓2。相手の発話が行為遂行的な意味を持っている可能性を吟味すべし。

こういった高文脈性・行為遂行性は日本語だけに見られるものではないが、特にそれに顕著に見られると言うことは事実であろう。

さて、以上では特に日本人のコミュニケーションにみられる奇妙な生態に関して、その完全な外部者であるかのように筆を進めてきた。けれども何を隠そう筆者も日本人である。個人的意見を述べさせていただければ、益益文脈を共有しない人間との会話を行う機会が増える今日の世界において、こういった高文脈性にしがみつくのは大変効率が悪いことではないか。それは確かに美しい文化を創り上げてきた一面もあるが、今日においては、むしろ害悪の方が大きいのではないか…とわたしは思う。

* 「格」「規範」というのも大変興味深い人類学的テーマなのであるが、ここでは紙幅が足らぬ故割愛する。

追記: 特に行為遂行性に関してはどの文化にもより普遍的に見られることは間違いない。明確化のため追記しておく。

民主主義的プロセスについて

安保法案をめぐる与党の動きに関して、民主主義とはなんぞや、という問が散見されるので、覚書を残しておく。

民主主義は、それ自身が運動でありプロセスであるということにおいて他の政治形態とは異なる。それはいわば「過程の哲学」の上に成立しているのである。

例えば多数決について、仮に数が多ければ多いほどよいという考え方のみに立てば、全員一致が一番よいということになる─伝統的な閉じた共同体というものは基本的には全員一致をよしとするものである。その中においてはひとつの価値のみが共有されており、それを共有しないものは村八分にされることによって全員一致が保たれることになる。

しかしながら、近代的な民主主義における多数決はこれとは異なる。そこでは、異なった意見が存在することが積極的価値として見出されているのである。様々な意見が存在することが当たり前であって、それがないことはかえっておかしいという考え方に立てば、全員一致はむしろ異常事態である。ここで初めて、少数意見に対する寛容の精神が重要視されるようになる。

民主主義的な多数決においては、多数と少数との議論によるプロセスそのものが重要なのであって、単に投票の結果だけが重要なのではない。この点こそが、伝統的な共同体における全員一致と、近代的な民主主義というものを分かっている。政治は単に「勝ち負け」によってのみ成立するものではないのである。

ある自民党の政治家は、「選挙に勝った以上、国民は政治というものを政治家に任せていただきたい。野党と話し合いということは基本的にしない。選挙に勝って国民の審判が下ったのだから、政治に関しては与党の思うとおりに動かしていく」という旨の主張をした。これは「勝ち負け」で政治を判断してしまう悪しき例である。政治は、残念ながら、スポーツではない。

悪法が通った、盛んに反対したけれども結局通ってしまった、通ってしまったら終わりである、という考え方は、多くの人間によって共有されているように見られるが、これも勝ち負けで政治を判断しており、誤りであると言わざるをえない。悪法が通ったのならば、それが少しでも悪く適用されないように、尚努力をする、終局的には撤廃されるように努力をする、ということをしなくてはならない。しばしば、いわゆる「文化人」などは、いくら反対しても通ってしまうのだから、反対しても意味は無い、といったことをいう。けれども、ある方が望ましくないというとき、その反対する力が強ければ強いほど、そのほうが成立する過程において抵抗が強ければ強いほど、できた方の運用をする当局者は慎重にならざるを得ない。たとえば秘密保護法などはあまりよい法律ではない、とわたしは思う。この法制についても、ワーワー反対して騒いだけれども現実にはあまり適用されていないではないか、という人がいる。けれども実際は、あれだけ反対があったからこそ、うっかり適用できない、というほうが現実に近いであろう。投票の結果において通るか通らないかということは、政治過程における一つのファクターであるけれども、すべてのファクターではない。負けちゃったじゃないか、いくらやってもだめじゃないか、という発想には、反省されるべき勝負思想というものが非常に大きく働いているのである。

さて、碩学な読者は既にお気付きの通り、上の文章は丸山眞男「政治的判断」のほぼ丸写しである─杉田敦による『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)、385から388頁による。文中に出てくる「破防法」は「秘密保護法」に変更してみた。これは1958年の講演をベースにしたものだが、状況があまりに変わっていないので驚かされる。すべての読者に一読をおすすめする。

大阪都構想に関して

大阪都構想に関する住民投票が終了し、投票数で1万票、得票率で 0.8% の差で否決された。大阪住民投票 反対多数 都構想実現せず – NHKニュース によれば、反対は70万5585票、賛成は69万4844票であったという。

今回の大阪都構想そのもの及びその投票に関しては、個人的には疑問に思う点が多々あったため、私も大阪市民であったら反対票を投じていたこととは思う。例えば、「大阪都構想の危険性」に関する学者所見では、以下の様な論点が提出されている。

  • (a) 特別区制は憲法上の地方公共団体ではなく不安定
  • (b) 東京都の繁栄は特別区制によるものではなく大企業の本社機能の集中に寄るもの
  • (c) 特別区制は府への中央集権を促進させ都市計画を難しくする
  • (d) そもそも二重行政は大きなムダを産んでいない;効果はせいぜい2−3億円と予測される

これらのような論点に対して、維新側、あるいは大阪都構想推進側が十分に答えることができていたとはあまり思わない。なにか的確な議論がなされている記事などがあれば、教えていただきたいところだ。

しかし一方で、大阪都構想は潰えた、よかったよかった、という気分ではない。商業の都としてかつて栄えたオオサカが徐々に衰退に向かっていることは間違いない。維新のような運動が出てきたのはそれなりの理由があるのだ。それらの問題に対してどのように答えていくか、という課題はいまだに残ったままである。

本来ならば大阪都構想に類した地方行政改革案というものはリベラルから出てこなければならないはずである。どのように大阪をもう一度力強い地域にしていくのか、ということを考える作業を続けなければならない。

ちなみに、私が大阪市長あるいは府知事だったら、大阪府を解体し、河内国・和泉国・摂津国の三国に分割する、「三国分割案」を提出するであろう。

BBC: 何故日本は児童ポルノ漫画を規制しないのか

これは、BBC – Why hasn’t Japan banned child-porn comics? の全訳である。正確性は保証しない。


日本の「マンガ」や「アニメ」は巨大な文化産業であり、世界中で有名になっている。しかし、その中には、児童を含む卑猥な表現をするものがある。何故日本はこのような表現を禁止しないのか?

日曜日の東京。同人誌即売会、サンシャインクリエイションには、幾千のマンガファン─ほぼ全員男─が集まり、ところ狭しと並ぶ机の上に置かれた同人誌をチェックしている。

妖精のような顔と大きな目をしたマンガの女性たち。多くはほぼ服を着ておらず、現実的にはありえないプロポーションをしている。洞窟のようなこの空間を、彼女たちが彩っている。

「このエリアは18禁です」とイベント主催者のヒデ氏は語る。

あるテーブル置かれている同人誌の表紙には、トップレスの少女が二人描かれている。わたしの目には、彼女たちは10歳〜15歳であるように見える。彼女たちは物語の中で、性的な行為を行っている。

他のテーブルも同じようなものである。英国やオーストラリア、あるいはカナダでは、確実に論争的、あるいは違法とみなされるであろうものが、ここでは問題なく売られている。

「児童虐待はよくない、それは常識です」とヒデ氏は言う。「しかし、その感情を持つこと、児童との性的な関係を夢想し楽しむこと自体は違法ではありません」。

彼の率直さはわたしを驚かせる。彼は「ロリコン」なる言葉─「ロリータ・コンプレックス」の略である─を導入する。これは、少女たちが卑猥な表現に巻き込まれるマンガの総称である。近親相姦、レイプ、その他のタビューを含むこともあるが、ヒデ氏はどちらかといえばハイスクール・ロマンスが好みだという。

「少女を含む性的創作物は好きです。ロリコンはわたしの趣味の一つです」、と彼は言う。

わたしは隣にいた彼の妻が、その「趣味」についてどう考えているのかを聞いた。

「問題無いと思っているでしょう」、と彼は言う。「彼女も少年たちのセックスが大好きですから」。

このような創作物は、一年に 3.6 億ドル(4.3 兆円)を生み出す日本の巨大なマンガ産業のちいさな一部分にすぎないが、多くの注目と論争の的になっている。

2014年6月、実際の児童に対する性的虐待を写した(訳者注: いわゆる「三次元」の)画像の所持を禁止する法律が日本では可決された。このような画像の生産及び牌譜は既に1999年に違法化されていたが、日本は OECD 加盟国の中では一番遅く、所持の禁止に踏み出すことになった。

同時に、マンガやアニメ、ゲームにおける、18歳以下に見えるキャラクターを含む「バーチャルな」性的画像を違法化することも検討された。しかし数多くの論争の後、日本の議会はこれを放棄。その決定は、(特に、海外の)児童保護団体やNGOから多くの批判を浴びることになった。

理解のための一つの鍵は、ヒデ氏は、我々が出会ってすぐに、彼の「趣味」を語ることになんの抵抗も持っていなかったということである。少女を含むマンガはある程度の社会的なスティグマを伴うようだが、未成年を含む性的な創作物はかなりメインストリームであるといえる。

日本の立法者は、おそらく、数多くのマンガファン─数百万にもなるかもしれない─の行為を違法化することにためらいを覚えたのではないか。

ヒデ氏のようなファンは、彼らは単に何ら危害を加えないファンタジーを楽しんでいるだけだという。児童モデルや女優は一切関わっていないから、「このようなマンガを創ることによって児童虐待は行われていない」のだ。

しかし、ファンタジーと現実との境界は常にそのように明確だと、どうして言えよう?

東京の秋葉原地区はマンガ世界の精神的な中心である。そこではネオンサインとポップ・ミュージックが眼と耳を圧倒させる。街には複数階を使った本屋が溢れ、ここならば、どんなトピックに関するマンガも見つけることができる。

その18禁部分では、「ジュニア・レイプ」や「ジャパニーズ・プリティーン・スイート」(役者注: あえて訳していない)といったタイトルのマンガを見つけ出すのは難しくない。

「何かに性的に興奮しても、すぐに慣れてしまいます」とアダルトショップで働くトモ氏は言う。「だから彼らは、常になにか新しいものを探しています。そこで、若い、未成年の女性に興奮するのです」。

批判者たちを憂慮させるのはこの点においてである。このようなマンガを創る中で仮に誰も傷つけられていなかったとしても、それは性的虐待を規範化し、促進させ、リスクを増大させるのではないか。

これが本当であるかは誰にもわからない─研究は未だ明確な結論を出していないのだ。しかし日本人の、特に女性たちは、このような自体を憂慮している。彼女たちは、このような画像を、しばしば女性の地位を貶めるようなエクストリームなポルノグラフィや、若い人々の性愛化に注意の目を向けない社会の一部であると考えているのである。

日本において若さへの強い興味を発見することは簡単だ。少女たちによって構成されたポップ・グループが成年男子の群衆に向けて演戯を行っている。ビルボードから広告、マンガに至るまで、女子高生のイメージはいたるところにある。

若い女性に向けた本を幾冊も書き著名になったリリー氏は、高校時代、男性が近寄ってきて、靴下やパンティーを購入すると言い出した時のことをわたしに語ってくれた。

「最低だと思います。変態です」、と彼女は言う。未成年とのセックスは、「強い、独立した女性に疲れた男性たちが実現したい権力の問題である」、と彼女は言う。

リリーの親の世代に有力だった家族のモデル─金を稼ぐ父と、家事をする母─は、未だに日本で強い力を持っている。しかし、日本の経済が弱体化するとともに、これを男性が実現することは難しくなった。

「彼らはビジネスでうまくいっていないので、ロリコンマンガの空想に走るのかもしれません。」

「わたしはそれを憎んでいます。本当に。日本から変態さを無くしたい─少なくともこどもたちをそこに含めないで欲しい。」

しかし、特に性的なファンタジーに関して、何が「よい」のか、何が「適切」かについての見解を政府が提供し、強制することの是非を問う人間もいる。

「批判すること自体はかまいません」とマンガ翻訳者であり、自由な言論の支持者であるダン・カネミツ氏(訳者注: 兼光ダニエル真氏)は言う。「しかし、ある人がどのように行為し、何を考えているかに基いてその人を取り締まる権力を政府に与えてしまうと、思想警察になってしまいます」。

では、彼は、少女たちや、レイプや近親相姦といったタブーを描く漫画家たちの権利のために立ち上がるのであろうか?

「わたしはそれらを好みませんが、他の人がどのように考え、何を共有した以下について、どうこう言う権利はわたしにはありません」、と彼は言う。「他の人の人権を傷つけないのであれば、一体何が悪いといえるのでしょうか?」

秋葉原のマンガショップの中で、児童保護団体のカズナ・カナジリ氏は、マンガやアニメよりも大きな問題であると彼女が考えているものを見せてくれた。メインストリートから外れ、階段をのぼると、DVD ばかりが置かれた部屋がある。

カズナ氏はそのうちの一つを棚から取り、見せてくれた。そのカバーには、露出度の高い水着を着て、大人のように性的なポーズを取る少女(5歳だという)の写真がある。他の DVD も、すべて、実際の子供が登場する。

「子供たちがかわいそう」、とカナジリ氏はいう。

「ジュニア・アイドル」ものと呼ばれるこれらの DVD は、1999年に児童ポルノが違法化されて以降人気を博した。子供の性器が隠されている限り、違法ではない、という解釈だったが、カナジリ氏は、去年の6月に法が強化されて以降はこれらも違法になったという。

「こういったものを作っている人は、適切な処罰を受けるべきです」、と彼女は言う。「こういったものは全く違法ですが、警察はまだ取り締まっていません」。

マンガやアニメにおける児童に対する性的表現はショッキングであり、注意を向けやすいが、カナジリ氏ら活動家は、今のところ、実際の児童を保護する、より重要な闘争に集中している、という。

しかし、こういった論争的なマンガやアニメ表現の禁止を全く諦めたわけではない。

「全て消えて欲しいのです」、と彼女は言う。「2020年には、日本にオリンピックが来ます。その時までには、日本が変態の国と呼ばれることのないようにしたいのです」。

マンガの支持者たちは強く拒否する説明であるが、オリンピックが近づくに連れ、海外の目が日本に向けられる。そうなれば、マンガやアニメを「ウィアード・ジャパン」ではなく、「クール・ジャパン」の一部にするための圧力はより強くなるであろう。

「どうして解散するんですか」に関して

どうして解散するんですか?」なるサイトを、ある慶応義塾大学生が、小学生を騙って作り上げた、として炎上中である。

批判されるべき点は幾多もあろうけれども、何よりも批判されるべきは、問題提起をするのならば、何故質問をするにとどまったのか、という点にあろうと思う。曲がりなりにも大学生であるのならば、自分が問題提起を行う事象について、それが何故問題なのかを説明し、かつ、それを解決するためのアクション・プランを提示するべきである。すなわち、この解散が問題的であると思うのならば、単純に「どうして解散するんですか」と問うにとどまり、答えを見つける責任を読者に押し付けるのではなく、自ら、「なぜこの解散が問題的であるのか」を論理的に説明し、それに対してどのようなアクションを取ることができるかを明示するべきである。それを行わないうちは、まさしく小学生同然であって、政治は小学生が行うものではない。

800億円という数字が紙面を踊っているけれども、選挙に伴って発生する様々なコスト─そこには単純に経済的なものだけではなく、選挙中の意思決定の遅れなども含まれる─は、そもそも代表制民主主義に不可避のものであって、単純に金額の大きさに触れるだけではこの選挙の問題性を指摘したことにはならない

仮に、この解散は不当である─すなわち、法的に適正なプロセスを経て成立したものではない─という議論を組み立てるのであれば、まず、「そもそも内閣に衆議院の解散権は存する(べき)か」、そして「もしそうだとすれば、どのような場合において内閣は衆議院を解散することができる(べき)か」を論じ、この解散がそれに当たらないことを示した上で、最終的に、「どうすればその不当性を糾弾することができるか」─たとえば、署名─をサイト閲覧者に示すべきだった。そこまでやらずに、「ねえ、どうして解散するの?」と聞くだけなら、まったく、小学生でもできる。

ひがしのみやこ

3年暮らした。

その街は大きく、数多くの人間がそこで蠢いていた。住んでいる間、幾度もその街についてまとまった文章を書こうとしたが、相変わらずミネルヴァの梟は黄昏の訪れと共にしか飛び立たない。

これほど不快な街はなかった。そこではすべての時間が積み重なることなくただ流れ行き、人間たちはお互いをモノとして扱うことで情報量の膨大さを何とかして縮減しようと努力していた。過去を知らず、未来を信じないものが、模倣された欲望を握りしめて糞尿を垂れ流す、そのような場所であった。

あの戦争に負けたことでこの列島に齎されたうち最も醜悪なものがその街を支配している。それを覆す術はわたしにはない。そこで育った生命体を救い出そうとしても、それはもうその街の外では生き続けることができなくなっているのだ。

しばらくの空しい努力ののち、わたしはゲリラ戦を諦め、都市の観測に徹することにした。その結果として判明したことは、先程述べたとおりだ。歴史のない街。出自の構造的忘却と本質の半ば恣意的な無視。現実によって提示された困難をさしあたって回避するためのほとんどアクロバティックな思考停止。模倣された欲望の絶え間ない再生産と感染。

あの街から脱出して、どこへ行くのかは知らない。ゲームマスターの用意したシナリオに何が書いてあるかは、プレイヤーには公開されていない。ただ、場面ごとに、最善と思われる選択をし続けるだけである。

人口一極集中阻止のための覚書

  1. 首都機能移転。京都の首都としての正式な設置、天皇の東幸からの帰還、及び政治機能の京都への移転。
  2. 地方制度改革。廃県置国。令制国の正式な再導入及び道制の設置。
  3. 税制優遇措置。東京外に本社を置く企業に対してなど。

首都機能に関しては、行政機能は在東のままでよいと考える。首都機能を一都に集中させる必要はない。東西両都制とする。

廃県置国に関しては、多少の整理が必要であろうと思われる。国レベルでは、上総・下総・安房(総国)や、備前・備中・備後・美作(吉備国)、などの統合。道レベルでは、主に以下の二つか:

  • 「畿内」の道化および拡大(単に「近畿道」、あるいは朝鮮にならい「京畿道」などとし、近江・淡路・紀伊などを統合するのがよいか)、
  • 東山道の分割(磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後からなる「東北道」と美濃・信濃・上野・下野からなる「東山道」へ分割するのがよいか)

北陸道・西海道(九州)・南海道(四国)・北海道などは基本的にはそのままで機能するだろう。名古屋を中心とする道を作るか否か(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河。東山道との統合もありか)、山陰道・山陽道の経済的自立性をいかに担保するか、は議論の余地あり。東京は武蔵国には属さない特別区とするのが現実的だろう。

もっと日本語は中国語から単語を輸入すべき

元来日本の知識人は西洋から横文字を輸入して漢字に直すということを明治維新以降せっせとやっていたが、ある時点から何故かカタカナのまま輸入して本意を明らかにせずに使うようになってしまった。一方中国では、カタカナという便利なものが無いためすべての概念は漢語に訳さざるをえない。日本から輸入した単語も多くあるが、最近になって出てきたものはほとんどが独自訳で、大陸中国と台湾・香港などで訳が違うものもずいぶんあるらしい。

そういった新しい単語に関して、現在日本ではカタカナを使っているが、漢字としても使えたほうが良い単語はたくさんあると思う。例えば…

全球的 (ぜんきゅうてき)

  • 意味: グローバル。
  • 文例: 「全球的視点に立って物事を考えることの必要性が叫ばれている」。
  • 応用: 「全球化」 – グローバリゼーション。「全球化全球化うるさいなぁ」。

網際網路 (もうさいもうろ)

  • 意味: インターネット。「網際」あるいは「網路」だけでも同じ意味を持つが、四文字熟語としても使える。
  • 文例: 「網際網路を駆使して調べた結果、ヤツの居所が判明した」。
  • 応用: 「網民」 – ネット民。「網民どもがまた釣りに群がってやがる」。

電脳 (でんのう)

  • 意味: コンピュータ。これは日本でも割と用例があるとは思うが、もっと主流になるべき。
  • 文例: 「新しい電脳を買ってきたら、うまく設定できない。」
  • 応用: 「電脳化」 – コンピュータライゼーション。「電脳化が進んでいる中、網路を利用した販路を開拓することが必須だと考えます」。

数拠 (すうきょ)

  • 意味: データ。
  • 文例: 「もっと多くの数拠を集めなければ、この仮説は証明できない。」
  • 応用: 「数拠分析官」 – データ・アナリスト。「当社では数拠分析官を募集しております」。

特に電脳や情報技術関連の用語はカタカナが多すぎるので、より漢字化を推し進めたい。普段はカタカナを利用していても、「ちょっとこの文章には漢語を使いたい」というときに代替となる単語があるとありがたいものだ。

「日本を取り戻す」

安倍自民党は前回の総選挙に際して「日本を取り戻す」なるスローガンを編み出し、「誰からどのようにして取り戻すというのか」という批判を買ったが、誰よりもこのスローガンを叫ぶべきは、右翼の側ではなく左翼の側であると感じる。

今日、「日本」を主題とする物語は右翼の側によって専有されすぎている。この点については以前も長い文章を書いた。ネーションを主体とする物語を解体し超越せんとする試みは最終的には失敗に終わったように思う。我々は今でも国民国家を生きており、ネーションに関わる物語を何らかの形で語らねばならない。問題は、その際に有効な言説が左翼の側に非常に乏しいということである。

これは「敗戦後論」に関わる加藤典洋と高橋哲哉の論争に、そして究極的には、戦死者たちをどう弔うかという問題へと関わっている。亡霊たちの供養が終わるまで、戦は終わらないのだ。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行ってきた

2013年10月、真夏のような暑さの土曜日。千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れた。

表の石碑

表の石碑

この墓苑は国営であり、第二次大戦の海外戦没者およそ250万人の遺骨が納められている。

海外戦没者が眠っていることが記されている

海外戦没者が眠っていることが記されている

靖国神社からは歩いて数分の近さである。土曜日だったが、人はほぼいなかった。

中央献花台

中央献花台

もっと早く書くつもりだったのだが、この施設について、いかに、何を語って良いものか、いまいちわからない。気の利いたことを書こうと思いながら、記事の公開ボタンを押せずにいた。

とりあえず一旦、写真をアップするだけにしておく。第二次世界大戦の戦没者に対して、いかにして向き合うべきか、という問題には、またの機会に詳しく触れてみたいと思う。それこそが、日本の戦後社会の根幹にある問題であるように、わたしには思えるからだ。

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