TagPhilosophy

考えたことについて書くということ、あるいは趣味としての思考

わたしはこどもの頃から何かについて考えるということが好きで、趣味は何かと聞かれると、「思考」と答えることがあった。それは基本的に自己満足のためのものであって、それを他人に伝えたり、議論したり、わかってもらうということは二の次であった。そもそも考えるとき、一般に通用する言語を用いないことが多かったし(「記号言語」とわたしが読んでいる、イメージに基づく思考法だった)、外に出すということにあまり大きなこだわりはなかった。勉強ができるわけでも、頭の回転が速いわけでもなく、特別頭が冴えているわけでもないが、ひとつ疑問に思ったことを自分のペースで考えていることが好きだった。精神的にも肉体的にも、にぶく、のろいこどもだったと言える。

成長して、わたし以外にも様々なことを考えているひとがいることを知り、自分で考えるだけではなくて、他の人が考えたことを学ぶことにも価値があることを知った。また同時に、何かを言語化すること、何かを人に伝え、理解してもらうことにも、大きな価値があるということを学んだ。それはとても重要な気づきだったけれど、同時に、自分が考えたことに対する自信の喪失に繋がり、他者の思考のトレースと、その理解に務める時間が多くなってしまった。

けれどもその期間も終わりつつあるように思う。わたしは改めて、自分自身の思考を、自分の言葉で─ただし、他の人にも分かる言葉で─表すときが来ているのだと思う。なぜかはよくわからない。他者の思考を理解することにも限界があること、それらを集めてコレクションするだけでは、単なる化石収集者にしかなれないこと(「生きた魚を取ってこい!」とニーチェ先生は言ったらしい)、そして何より、わたしに与えられた時間に限界があること、そういったことを身をもって悟れる年令になったのかもしれない。あるいは、何か全く別に、わたしの精神の何処かに赤く大きなスイッチというものがあって、それが何かの拍子に、誰かによって押されたのかもしれない。そのスイッチがどこにあって、それを誰が押したのかは、今はわからない。

わたしが考えていることは間違っているかもしれない。それで他人に馬鹿にされたり、恥をかいたりするかもしれない。何かを知らないことで、「こんなことを知らないなんて死んだほうがいいですよ」と言われてしまうかもしれない。それでもいい。それは他でもないわたし自身の思考であり、わたし自身の血と肉なのだから。間違っていることは考え直せばいい。知らなかったことは新たに学べばいい。正しいことを言える人、たくさん知識を持っている人、頭の回転が速い人、わたしはそういう人であったことはかつてないし、これからもなれないだろうけれども、自分が疑問に思ったことを、ただ考え続けることはできる。考え続けていれば、いつか真理に近づけるかもしれない。知らんけど。

ゆっくり考えて、少しずつ言葉にしていけばいい。わたしに残された時間は、まだあるのだ。

欧州議会選について思うこと

欧州議会選が行われ、フランスの国民戦線 (Front National) やイギリスの連合王国独立党 (UK Independence Party) — いつから連合王国は独立でなくなったのだ? — が躍進したという。

まあ、そうだろうな、と思う。フランスで国民戦線が支持を伸ばしていることは今年前半に行われた地方選挙で明らかであった。イギリスにおいても、移民の受け入れ — 特に問題とされているのはヨーロッパからの移民だ — と多文化主義政策のバックラッシュとして、独立党は労働者を含む層から急速に支持を伸ばしている。スウェーデンだって、オランダだって、欧州連合に加盟してはいないがスイスだって、どこもナショナリスティックな気分が高まっていることは世界的に同じだ。もちろん、日本でも。

「ヨーロッパ市民」という幻想は、結局、今のところは、より強いリアリティを持って迫ってくる「ネーション」という想像の共同体を挿げ替えることができていない。どっちにしろ幻想であることは変わらないのだが、ネーション=ステートという制度的枠組みによって絶えず再生産を行うことができる点が大きく違う。ヨーロッパ、という地政学的想像は、未だ共同体としての同一性を持ちうる程の強靭さを持ち合わせていないのである。

それを何とかするのが憲法パトリオティズムであったはずだが、そもそも「前-理論的」に植え付けられる共同体の想像を、ガチガチの理性的な枠組みによって支えようということに袋小路がある。もちろんリベラル・ナショナリズムは現状をただ追認し変革を生み出す力を全く持たない、規範的には出来損ないの理論だが、かと言って憲法パトリオティズムが現状を変革する力を持つかといえば、否、という気がしている。

共同体を現実的に想像させるために必要なのは理論ではなく政治的行為なのである。それを構成的と呼んでもよいし神話的と呼んでもよいが、その指示内容は変わらない。問題は、それをいかにして、誰が行うか、ということである。

概念というものは、どんなに簡単でもどんなに複雑でも、すべて、幾何学的にカットされたダイアモンドが、爪のついた金の台にはめられているように、それ自身の皮肉の中に、のどかに笑っている歯列の中にはめられている。

概念は真顔で、「これはAであり、あれはBである」という。しかし、この真顔は、笑いをこらえた真顔である。大笑いを呑みこんで、もし口をよく結んでいなければ、吹き出してしまいそうな、不安定な真顔である。これはAではない。断じてそうでない、もうひとつはこんりんざいBではないことを、概念は良く知っているのだ。概念が厳密に考えているのは、それが口に出しているのと少し違うことであって、この二心の中に皮肉がある。 – ホセ・オルテガ・イ・ガセー

© 2017 The Long Wait

Theme by Anders NorénUp ↑